2018 京の冬の旅 4 ~ 清水寺塔頭 成就院 西郷隆盛と月照上人ゆかりの寺 ~

 京都観光ナンバーワンの人気を誇る 清水寺 創建の縁起は複数あるようですが、奈良時代末期の宝亀5年(778)、大和国子島寺(観音寺)の延鎮が東山山麓の音羽の滝で、白衣の居士行叡と出会い、霊木を授けられて観音像を刻み、滝の上に建てた草庵に祀ったことがはじまりといわれています。その後、延暦17年(798)にこの地に鹿狩りに来た坂上田村麻呂が修行中の延鎮に殺生を戒められ観音に帰依し、二人で千手観音像をつくり仏堂を寄進して安置、その後、弘仁元年(810)に鎮護国家の道場となり嵯峨天皇より『北観音寺』の宸筆を賜りますが、音羽の滝にちなんだ『清水寺』の名称が一般化したといいます。

   成就院3 
     子安搭からの清水寺伽藍

  成就院1  成就院2
    仁王門                          音羽の滝   

  『京の冬の旅』で公開されている塔頭 成就院 は、室町時代、応仁の乱の兵火にあった清水寺の復興に活躍した願阿上人が住坊として創建され、江戸時代には清水寺の本願職(寺院の造営勧進などを行う)を担当した子院であったといいます。成就院は『月の成就院庭園』と賞される庭が有名ですが、幕末の勤王僧として知られる月照上人と実弟信海上人が住職を務め、西郷隆盛をはじめとする勤王の志士たちが密談をしたところとも伝えられています。月照上人は尊皇攘夷に傾倒して京都の公家と関係を持ち、将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老井伊直弼から危険人物と見なされ、そして安政の大獄で追われる身となり、西郷の故郷である薩摩藩に逃れるも、藩から裳拒否され、西国とともに錦江湾に入水し亡くなったことで知られています。
 
 京都観光で欠かせない存在になっている清水寺から高台寺の界隈は、また幕末から維新を物語る史跡が多く点在しているところでもあります。

 京都霊山護国神社 は幕末、尊皇派志士の葬儀が行われるようになったことから、明治政府が官営の護国神社として戊辰戦争における官軍戦死者の合同墓地とし、坂本龍馬、中岡慎太郎、木戸孝充などの墓碑があることで知られています。護国神社の向かい側には幕末維新専門の歴史博物館『幕末維新ミュージアム霊山史料館』があり、歴史ファンの人気を集めています。
 その護国神社の参道は『維新の道』と呼ばれ、西郷隆盛と月照上人の密議の寺と伝わる 春光院 や幕末勤王の志士が密会した 翠紅館跡 などがあり、幕末維新を偲ぶ史跡に往時の志士たちの姿を連想させ、今でもそこかしこから彼らが現われてくるのではと・・・思い描いてしまいます。

  成就院9  成就院10
    京都霊山護国神社                   幕末維新ミュージアム霊山歴史館

   成就院8
        維新の道

  成就院11  成就院12
    春光院                          翠紅館跡
  
 維新の道から、土産物店が並ぶ二年坂、産寧坂、清水坂を上って行くと鮮やかな丹塗りの清水寺の仁王門が出迎えてくれます。仁王門下の広場のいつもながらの喧騒な光景が繰り広げられています。石段を上ってそびえる三重塔を仰ぎ、北総門へ。

 北総門は成就院の正門で、寛永年間に再建されたといいます。門を入ると正面に月照・信海兄弟上人の歌碑、そして西郷隆盛が月照上人の17回忌に詠んだ弔詞を刻んだ碑の3つが建てられています。西郷が尊敬する島津斉彬が亡くなった時、殉死しようとした西郷に止めるよう諭したといわれる月照上人への厚い思いに胸が打たれます。

  成就院4  成就院5
   北総門                           月照、信海上人と西郷隆盛の石碑

 公開されている成就院は石碑の建つところから少し下った池を前に塀を廻らした建っています。

  成就院7  成就院7

 德川家光により再建されたという建物の玄関を入ると、仏間には月照、信海上人の木像、西郷隆盛の弔詞の拓本、錦江湾に入水していたときに身に着けていたという衣などが展示されています。そして、明治期のガラス戸の向こう側には江戸時代初期を代表するといわれる名勝庭園が広がっています。室町期の相阿弥の作で小堀遠州が補修したとも、江戸時代の俳人・松永貞徳の作ともいわれる庭は、東山36峰のひとつ高台寺山を借景にした池泉観賞式庭園で『雪月花の三名園』のひとつ、『月の庭』とされています。あまり広くない庭は、生け垣を低くして山の中腹に灯籠を立てて遠近感を出し、さらに階段状の刈込を配すなど様々な工夫で、無限の広さを感じさせるような工夫が凝らされているといいます。また、豊臣秀吉の寄進と伝わる誰が袖手水鉢、蜻蛉灯籠、烏帽子石などの灯籠、名石が配された庭に五葉松や椿などの木々が趣を添えた美しい庭園に圧倒されます。山の上から月が照らす庭を想像するだけでその心が躍ります。そして、この見事な庭園の東には東福門院和子が寄進したとという持仏堂(護摩堂)があり、本尊・十一面千手観音。不動明王や月照、信海上人など歴代住職が祀らているといいます。年に数回公開される成就院、庭園を彩るサツキ、新緑、紅葉、そして雪景色、四季折々のそれぞれの風情を堪能してみたい思いに。その思いが叶うことを期待しながら成就院をあとにしました。

 また、清水寺西門の脇にある茶店も西郷隆盛、月照上人にゆかりがあるところです。『忠僕茶屋』の名で親しまれる茶店を開いた大槻重助は、生涯上人の下僕となって忠誠を尽くし、鹿児島へ逃れ、ふたりが錦江湾に入水したときは救助に努めたものの上人を助けることができず、やむなく京に戻り、牢獄につながれたといいます。上人の死を怪しんだ幕府の人々の拷問にも口を割らず釈放されるも、『天下の謀反人』の烙印を押された重助に居場所はなく、わずかなお金で開いた茶店も人が寄らずに「苦労を重ねるも、時代が変わり、謀反人の冤罪が晴れたことにより『忠僕』と称えられるようになったといいます。

 今年の『京の冬の旅』では何度も訪れた場所でありながら初めて知ったことも多く、これを機会にまた、幕末維新に関する小説に目を通してみたい気持ちになりました。


2018 京の冬の旅 3 ~ 東福寺塔頭 即宗院  薩摩藩の畿内菩提寺 ~

 臨済宗東福寺派の大本山 東福寺 は五摂家のひとつ九条家が創建し、室町時代には京都五山のひとつに数えられた寺院として知られています。その塔頭子院は80を超える時期もあったといわれていますが、現在は25の塔頭がその姿を伝えています。

 京の冬の旅で公開されている 即宗院 は、薩摩の守護大名であった島津氏久の菩提を弔うため、南北朝時代の嘉慶元年(1387)に創建された寺院。開山の剛中玄柔は薩摩藩主の猶子として豊後の国に生まれ、東福寺第54世住持になった人で、院号は氏久の法名に由来するとのこと。永禄12年(1569)に焼失した寺は、慶長18年(1613)島津義久によって現在の地に再興され、以来薩摩藩の畿内菩提所として厚い庇護を受けたといいます。幕末には境内にあった茶亭『採新亭』で西郷隆盛と清水寺の僧月照上人が倒幕の密議を行ない、また鳥羽伏見の戦いの際には屯営となり、寺の裏山に砲列を敷き、幕府軍に砲撃を加え、勝利を手にしたと伝えられています。そして、境内には倒幕後、西郷隆盛は戦死者524霊を弔うため即宗院に滞在して碑文を書き、明治2年(1869)に『東征戦亡の碑』を建立したといいます。

 紅葉の名所で名高い東福寺の通天橋や洗玉澗は人影もなく、閑散とした境内に流れる凛とした空気・・・公開されている即宗院は境内のいちばん奥まったところに架かる偃月橋を渡った右手に位置しています。

  即宗院1  即宗院2
    通天橋と洗玉澗                     偃月橋

 石段を少し上がると山門があり参道が庭園に向かってのびています。

  即宗院3  即宗院4

 庭園入口の左手から玄関に入りと仏間があり、宝冠を頂いた釈迦如来像が安置されています。そして、室内には島津家から拝領した品々や西郷隆盛筆の掛軸や德川15代将軍慶喜の掛軸も公開されていました。

 そして、客殿の前には苔の美しい庭園が広がっています。即宗院のある地は、東福寺を造営した九条道家の祖父・兼実の山荘『月輪殿』が築かれていた場所といわれ、この庭園はその跡地といいます。太平洋戦争後荒廃していましたが、多くの人々によって往時の面影が復元されたといいます。

  即宗院5  即宗院6

 深い森を背後にした庭は室町時代後期の作と伝えられる池泉回遊式庭園で、滝の跡の石組みや池の地割などが当時の名残りをとどめているといいます。苔が敷きつめられた中を走る白砂の散策路、葉を落とした木々の隙間からこぼれる冬の柔らかな陽ざしの射し込む室内に漂う香煙・・・縁にたたずみ眺める庭は雑多な心に寄り添ってくれ、優しい気持ちにさせてくれます。

 そして、西郷隆盛自筆の『東征戦亡の碑』を見るために裏山へ。

 赤や黄色の実をつけた千両を見ながら築地塀に沿って進むと、『採新亭跡』と書かれた地があります。ここは江戸時代に第13世龍河が草庵を建てたことにはじまり、茶室として使用されていたといいます。東山36峰の裾野の閑居な地に建つ茶亭は恰好な隠れ場であったことから密議が行われた伝えられています。

  即宗院7  即宗院8
                                   採新亭跡

 枯れ葉が積もった道を上って行くと石造りの鳥居が建ち、石碑が並んでいます。

  即宗院9  即宗院10
                                   西郷隆盛自筆の「東征戦亡の碑」

 西郷隆盛が霊を供養するために斎戒沐浴し揮毫した戦士名と碑文、新しい日本のためにこれほど多くの犠牲があったのかと思うと胸が熱くなります。刻まれた名には隆盛の弟・吉之助や新選組の隊士から薩摩藩に移り、新選組局長・近藤勇を斬首に追い込んだ清原清(武川直枝)もあり、境内の一角には幕末三人斬りのひとり田中新兵衛の墓も建っています。

 そして、新しい日本のために犠牲となった人々のための冥福を祈り、感慨深い思いを胸に境内を後にしました。

 

2018 京の冬の旅 2 ~ 相国寺塔頭 豊光寺 廃仏毀釈に立ち向かった傑僧ゆかりの寺 ~

 『京の冬の旅』では相国寺塔頭の 豊光寺 も公開されています。

 豊光寺は慶長3年(1598)、豊臣秀吉や徳川家康の外交顧問として重用され、相国寺中興の祖といわれる第92世住持西笑承兌が豊臣秀吉の追善のために創建した寺。西笑没後、荒廃した豊光寺は、天明の大火で焼失し、廃絶の危機にあったが、明治15年(1882)、荻野獨園により再興され、塔頭の慧林院とその子院冷香軒の客殿を移築し、合併したといいます。相国寺派初代官長であった荻野獨園は、廃仏毀釈の際に日本の禅宗を守るために奔走したことで知られ、山岡鉄舟などとの親交を持ち、この豊光寺で亡くなったといいます。

 豊光寺は法堂とつながる庫裡や方丈の裏手に位置しています。桃山期、または江戸初期の建立といわれる山門を入ると苔を敷き詰めた庭のなか、石畳の参道が玄関に向かってのびています。

  豊光寺1  豊光寺2
    山門

 玄関から本堂に入ると本尊・釈迦如来像を中央に開祖・西笑承兌像、慧林院冷香軒開祖・太嶽周崇像が安置され、書院には足利幕府10代将軍足利義稙の肖像画や獨園の頂相、山岡鉄舟の書などの寺宝が公開されてされています。そして方丈南から書院東には苔と白砂に楓が配された庭園が広がっています。

  豊光寺3  豊光寺4
    退耕塔

 白壁の塀に囲まれ、地面を覆う苔の上で葉を落とした楓が幹や枝をのばす庭は禅寺らしい閑寂な雰囲気を漂わせています。そして、書院東の庭に中には獨園が亡くなった後に、参学の有志によって建てられたという『退耕塔』があり、碑文は富岡鉄斎によるものといいます。 

   豊光寺5

 明治期の傑僧といわれた荻野獨園は廃仏毀釈の影響が強かった鹿児島県の仏教寺院再建に尽くし、また、薩摩藩の京屋敷として貸していた敷地が同志社英学校の用地になった際も「信教の自由の」の立場からこれを認めたといいます。幕末・明治維新に相国寺はゆかりの深い寺院であることを改めて感じた拝観でした。


2018 京の冬の旅 1 ~ 相国寺塔頭 林光院 鴬宿梅で知られる薩摩藩ゆかりの寺 ~

 幕末、新しい日本を求める高まりの中で大政奉還、王政復古が実現された明治維新から150年、その舞台となった京都には幕末・維新を物語る史跡やゆかりの社寺が多く点在しています。今年の『京の冬の旅』は『明治維新150年』と維新の立役者のひとり『西郷隆盛』をテーマに開催されています。

 臨済宗相国寺派大本山 相国寺 は幕末、境内に薩摩藩二本松藩邸が建てられていて、ここで薩長同盟が成立されたことで知られています。『京の冬の旅』の特別公開では薩摩・島津家とゆかりの深い塔頭のひとつ 林光院 が公開されています。

 林光院は室町幕府第4代将軍足利義持の弟良嗣の菩提を弔うために夢窓国師を勧請開山に創建され、当初は二条西ノ京にあった紀貫之の屋敷跡にあったと伝わり、その後移転を繰り返し、安土桃山時代に豊臣秀吉の命により今の地に移ったといいます。しかし、明治7年1868)に廃仏毀釈により廃院し、大正8年(1919)に橋本獨山により再興されたといいます。薩摩藩との関係は、関ヶ原の戦いで敗れた島津義弘が、大阪の豪商・田辺屋の今井道与により堺港から海路で薩摩に無事に帰国することができ、その功により薩摩藩秘伝の調薬方の伝授を許され、義弘自らの僧形像が与えられたことから松齢院を建てて安置し、義弘が没した後は位牌も安置されたといいます。その後道与の孫・乾崖梵竺が林光院の住職になり、義弘の像と位牌が林光院に遷され、島津家ゆかりの寺となったといいます。

 今出川通から同志社大学の学舎に挟まれた道を行くと相国寺の総門があり、門をくぐると平坦な境内に松の木の大木がそびえ、掃き清められた石敷きの道が右に左に、そして縦にとのび、放生池にかかる天界橋、三門跡、仏堂跡の先に豊臣秀頼の寄進という法堂がそびえています。相国寺、訪れるたびに感じるのは境内の明るさと清々しさ。それは広大な境内に植えられている木々が程よい間隔で幹や枝をのばし、建物に空間をもたらしているためなのかはわかりませんが、境内を歩いているだけで心が晴れてきます。

  林光院1  林光院2
    相国寺総門                       法堂

 その境内には塔頭寺院が12院ありますが、特別公開されている塔頭・林光院は法堂の手前のから横にのびる相国寺東門の手前に位置しています。

  林光院3  林光院4
    林光院山門                       

 山門を入ると、江戸時代、近江にあった仁正寺藩の藩邸を移築したという本堂、書院が建っています。本堂には地蔵菩薩が安置され、建物の内部は初公開となる襖絵で飾られています。この襖絵は藤井湧泉氏の手による水墨画で、4年の製作期間を経ての完成といいます。藤井湧泉氏は中国・江蘇州の生まれで大学で水墨画を学ばれ、日本に留学して、日本の会社に勤務の傍ら絵筆を握り、その水墨画が認められて一休寺、高台寺の襖絵などを手がけ、今回、林光院の襖絵を描かれたそうです。雅号の『湧泉』は哲学者・梅原猛氏が名付けたといいます。描かれている襖絵、本堂入口にある『龍虎図』の虎はなんとも穏やかな猫を思わせる愛らしさにあふれ、龍もその虎を優しく見守る親のような穏やかさを感じました。そして、地蔵菩薩は蓮の花に囲まれています。佐賀県にある虹ノ松原の松を描いた雄大な『松図』、そして『牡丹図』『梅図』と植物が描かれた水墨画、どれも印象に残るものでした。

 そして、林光院で忘れてならないのが『鴬宿梅』と呼ばれる梅の木。この梅の木には逸話が残されています。平安時代の村上天皇の頃、清涼殿の梅が枯れたため、代わる木を探し求められとところ西ノ京のある屋敷に良い梅の木があることを聞き、その梅が移植されると、その枝には 「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はととはば いかがこたえん」 の短冊が掛けてあり、これに心を打たれた天皇は歌の主を尋ねると、紀貫之の娘であることを知り、梅の木を返されたといいます。そして、この梅は寺の移転とともに接ぎ木などによる代替わりを繰り替えし、現在も引き継がれているといいます。
 その『鴬宿梅』は書院の南庭に植えられています。36枚もある花弁を持ち、白、赤、淡紅が混じって咲く珍しいものであるとともに香りが強いのが特徴といいますが、開花3月上旬から下旬とのことで、今はまだ固い蕾で時を待っていました。

 薩摩藩とゆかりが深い林光院、相国寺東門を出た左手の境外墓地には、幕末の『蛤御門の変』『鳥羽・伏見の戦い』で戦死した薩摩藩士が合葬されています。

   林光院5
      薩摩藩戦死者墓

何度も訪れている相国寺で、今回初めて拝観が叶った 林光院 まだその美しい花を見ることができなかった『鴬宿梅』が咲くころに、もう一度水墨画を観に訪れたいと心に決めて、境内を後にしました。


行願寺 ~ 「革堂」の呼び名で親しまれる寿老人神を祀る寺 ~

 福徳をもたらす神として信仰されている『七福神』は室町時代中頃に京都で始まり、次第に日本各地に拡がっていき、現在の形に定着したのは江戸時代中頃で、お正月の初詣を兼て七福神詣でが庶民の間で盛んになったといいます。

  『革堂(こうどう)さん』の俗称で親しまれる 行願寺 には七福神のひとり『寿老人神』が祀られています。行願寺は、平安時代の寛弘2年(1004)行円上人が一条小川にあった一条北辺堂跡に賀茂明神の神木で千手観音像を刻んで堂内に安置したのが始まりと伝えられています。開山の行円上人は豊後国(大分県)の人で、ある時、山中で一頭の鹿を射止めたところ、その胎内に子鹿が生きているのを見て殺生を深く悔いて仏門に入り、頭にはいつも仏像をいただき、身には経文を書いた鹿革をまとっていたので、市中の人々から『革聖』と呼ばれるようになり、寺も『革堂』の別称が生まれ、中世には六角堂(頂法寺)とともに町堂として多くの信仰を集めたといいます。

 京都御所の東南、寺町通に面して門を開く行願寺、山門を入ると正面に本堂が建っています。いく度かの火災により転々とし、現在の地には江戸時代の宝永5年(1708)の大火後に移り、文化年間に再建されたという本堂には十一面千手観音像が安置されています。西国三十三カ所観音霊場の第19番札所、神仏霊場巡拝の道114番などの札所でもある寺には、この日も巡礼者が訪れていました。

  行願寺1  行願寺2  

   行願寺3
                               本堂

 『都七福神』の幟のはためく境内、寿老人神が祀られる堂は本堂の斜め向かい、愛染堂と並んで建っています。寿老人は中国の伝説上の人物で、頭の長い、短身な老人で、手には巻物を張り付けた杖、団扇や桃を持ち、お供に鹿を従えた長寿を授ける神として崇められています。

  行願寺4  行願寺5
  
  行願寺6  行願寺9
    寿老人神堂                        愛染堂

 境内には他に庫裡や鐘楼、宝物館などの建物、そして大きな五輪石塔があります。境内の西北隅にたつ五輪石塔は高さが約3㍍近くあり、水輪の正面には不動明王が安置されています。

  行願寺8  行願寺7
    鐘楼と庫裏                        五輪石塔

                   行願寺10


 そしてこの行願寺には『幽霊絵馬』と伝わる世にも不思議な絵馬が残されています。寺伝によれば、文化年間のころ、革堂の近くにあった質屋の子守り娘が革堂に訪れる人たちが唱える御詠歌を覚え、子守唄代わりに口ずさむようになった。法華信者である店の主人はそれが気になり、寺への出入りを禁じたが、娘はむずかり子供を背負っては叱られても叱られても出かけ、自分の子どもも回らぬ口で御詠歌を唱えているのを耳にしたため、土蔵に閉じ込めてしまった。すると娘は寒さのため凍え死んでしまったので裏には埋め、親元へは「好きな男ができたらしく、無断で出奔した」と通知。驚いた両親が事情を聴いても知らぬ存ぜぬの一点張りなので、いつも行っていた革堂に参詣し本堂に籠って御詠歌を唱えていると、探し求めていた娘があらわれて事の次第を話し、母親にもらった手鏡を置いてスーッと消え失せたという。事の顛末を知った両親は娘の行方が知れたのも革堂のお陰と形見の手鏡をはめ込んだ絵馬に娘の幽霊とその経緯を書き込んで奉納したとのこと。これが『幽霊手鏡の絵馬』といわれる不思議な絵馬で、今も宝物館に保存されていて、8月22~24日に行われる幽霊絵馬供養の際には拝見することができるといいます。

 長寿・福徳を授ける神寿老人神、そして人々の苦しみの声を聞いて、救いを与えてくださる観音さまが祀られる 行願寺 また訪れたいと思います。 




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