2018 京の冬の旅 3 ~ 東福寺塔頭 即宗院  薩摩藩の畿内菩提寺 ~

 臨済宗東福寺派の大本山 東福寺 は五摂家のひとつ九条家が創建し、室町時代には京都五山のひとつに数えられた寺院として知られています。その塔頭子院は80を超える時期もあったといわれていますが、現在は25の塔頭がその姿を伝えています。

 京の冬の旅で公開されている 即宗院 は、薩摩の守護大名であった島津氏久の菩提を弔うため、南北朝時代の嘉慶元年(1387)に創建された寺院。開山の剛中玄柔は薩摩藩主の猶子として豊後の国に生まれ、東福寺第54世住持になった人で、院号は氏久の法名に由来するとのこと。永禄12年(1569)に焼失した寺は、慶長18年(1613)島津義久によって現在の地に再興され、以来薩摩藩の畿内菩提所として厚い庇護を受けたといいます。幕末には境内にあった茶亭『採新亭』で西郷隆盛と清水寺の僧月照上人が倒幕の密議を行ない、また鳥羽伏見の戦いの際には屯営となり、寺の裏山に砲列を敷き、幕府軍に砲撃を加え、勝利を手にしたと伝えられています。そして、境内には倒幕後、西郷隆盛は戦死者524霊を弔うため即宗院に滞在して碑文を書き、明治2年(1869)に『東征戦亡の碑』を建立したといいます。

 紅葉の名所で名高い東福寺の通天橋や洗玉澗は人影もなく、閑散とした境内に流れる凛とした空気・・・公開されている即宗院は境内のいちばん奥まったところに架かる偃月橋を渡った右手に位置しています。

  即宗院1  即宗院2
    通天橋と洗玉澗                     偃月橋

 石段を少し上がると山門があり参道が庭園に向かってのびています。

  即宗院3  即宗院4

 庭園入口の左手から玄関に入りと仏間があり、宝冠を頂いた釈迦如来像が安置されています。そして、室内には島津家から拝領した品々や西郷隆盛筆の掛軸や德川15代将軍慶喜の掛軸も公開されていました。

 そして、客殿の前には苔の美しい庭園が広がっています。即宗院のある地は、東福寺を造営した九条道家の祖父・兼実の山荘『月輪殿』が築かれていた場所といわれ、この庭園はその跡地といいます。太平洋戦争後荒廃していましたが、多くの人々によって往時の面影が復元されたといいます。

  即宗院5  即宗院6

 深い森を背後にした庭は室町時代後期の作と伝えられる池泉回遊式庭園で、滝の跡の石組みや池の地割などが当時の名残りをとどめているといいます。苔が敷きつめられた中を走る白砂の散策路、葉を落とした木々の隙間からこぼれる冬の柔らかな陽ざしの射し込む室内に漂う香煙・・・縁にたたずみ眺める庭は雑多な心に寄り添ってくれ、優しい気持ちにさせてくれます。

 そして、西郷隆盛自筆の『東征戦亡の碑』を見るために裏山へ。

 赤や黄色の実をつけた千両を見ながら築地塀に沿って進むと、『採新亭跡』と書かれた地があります。ここは江戸時代に第13世龍河が草庵を建てたことにはじまり、茶室として使用されていたといいます。東山36峰の裾野の閑居な地に建つ茶亭は恰好な隠れ場であったことから密議が行われた伝えられています。

  即宗院7  即宗院8
                                   採新亭跡

 枯れ葉が積もった道を上って行くと石造りの鳥居が建ち、石碑が並んでいます。

  即宗院9  即宗院10
                                   西郷隆盛自筆の「東征戦亡の碑」

 西郷隆盛が霊を供養するために斎戒沐浴し揮毫した戦士名と碑文、新しい日本のためにこれほど多くの犠牲があったのかと思うと胸が熱くなります。刻まれた名には隆盛の弟・吉之助や新選組の隊士から薩摩藩に移り、新選組局長・近藤勇を斬首に追い込んだ清原清(武川直枝)もあり、境内の一角には幕末三人斬りのひとり田中新兵衛の墓も建っています。

 そして、新しい日本のために犠牲となった人々のための冥福を祈り、感慨深い思いを胸に境内を後にしました。

 
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