本能寺 ~ 日本の歴史を揺るがした『本能寺の変』で知られる寺 ~

 本能寺 と言えば、明智光秀が織田信長を討った『本能寺の変』で有名な寺院。しかしその本能寺があった地には現在、石碑があるだけで往時の様相は想像するしかありません。

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     信長が襲撃されて自刃した本能寺跡に立つ石碑

 『本能寺の変』によってすべての伽藍を焼失してしまった本能寺はその後、豊臣秀吉によって現在の中京区寺町御池下ルの地に移され、伽藍が再建されました。本能寺は本門法華宗の本山で、その創建は宗祖の日隆が応永22年(1415)に油小路高辻に本応寺を建ててことにはじまるといいます。しかし宗徒同士の争いでの破壊後に再建されるも、叡山の僧兵による天文法華の乱で焼かれ、日承が本能寺の変が起こった地に再建、その寺も焼失、現在の地に移ってからも火災に遭うなど五度も火災に遭遇したといいます。

 御池通と寺町通の角に位置する本能寺。寺町通に面してたつ総門の前には辻説法を唱える日蓮聖人の像と織田信長廟所の石柱がたち、その門を入れば正面に本堂が建っています。いつもひっそりとしている境内にはスマートフォンや朱印帳を手にした若者の姿が多くありました。彼らは映画やゲームの『刀剣乱舞』の刀剣ゆかりの地として訪れているようです。

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    総門                            辻説法を唱える日蓮聖人

 いく度も火災に遭遇したとい本能寺、現在の建物は昭和3年(1928)に建立されていいますが、十界大曼荼羅を本尊とする本堂は創建当時の面影を残したものといいます。本堂の横には境内を見下ろすようにホテルのビルがそびえ、並ぶように方丈と寺務所、その向かいに信長公の遺品などが展示される大寶殿のビルが建っています。

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    本堂                            大寶殿

 本堂の裏手には三男・信孝の依頼により建立されたという信長の廟所がたち、たくさんの墓標が並んでいます。『本能寺の』の原因は光秀の怨恨説、光秀・秀吉・家康との三者共謀説・・・・などいろいろな説があるようですが、信長が打たれたことは歴史上明白な事実。そんな思いを抱きながら墓石に手を合わせました。

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                              信長廟  

 また廟と並んで宗祖・日隆や日像などゆかりの人々の廟やお墓もたてられています。

 そしてかつては26院あったという塔頭は現在7院になり、境内の南側に並んでいます。

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    塔頭のひとつ 龍雲院                 塔頭のひとつ 源妙院

 日本の歴史のなかで、信長が果たした役割や業績は計り知れないものがあり、今も多くの人々によって書物や漫画、また映像の主人公として描かれています。そして、情報や知識によってここを訪れる人も増えているのかもしれません。繁華街の中にある 本能寺 「近くを通った時にはまた来ますね」とつぶやきながらお寺を後にしました。

                       
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上徳寺 ~ 源融ゆかりの塩竃を山号とする『京のよつぎさん』で親しまれる寺 ~

 『源氏物語』の主人公・光源氏、そのモデルのひとりとされている左大臣源融の屋敷は河原院と呼ばれ、現在の五条大橋の西側にあったとされ、現在の河原町五条の南から富小路六条のあたりは本塩竈町の町名になっています。このあたりには寺院が多く立ち並んでいますが、これは豊臣秀吉の都市改造によってこの地に集められたといいます。 京のよつぎさん として知られる 上徳寺 もこの一角にあります。上徳寺は慶長8年(1603)に徳川家康が寵愛の阿茶の局のために建立した寺。山号の塩竈山は、嵯峨天皇の皇子源融の河原院にちなんだもので、源融が院の庭に庵をつくり、陸奥の塩竈の風景を模し、そこで塩を焼いて煙をたて、その趣きをめでたという史跡により、塩竈明神を鎮守としてまつり、塩竈山上徳寺と号したといいます。

 五条通から富小路を南に入ると右側に世継地蔵菩薩と書かれた提灯の下げられた山門があり、入り口には阿茶の局墓所の石柱がたっています。

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                                    本堂

 山門の正面ある本堂には阿弥陀如来像が安置されています。この阿弥陀如来像は江州矢橋(滋賀県草津市)の鞭崎八幡宮に奉られていたもので、縁起によれば、平安末期に木曽義仲が江州に出陣してきたことで多くの民が心身を悩ましたり病にかかり、これを憂いた国主が仏師安阿弥快慶に如来をつくることを依頼、そしてその尊像を拝し、御称すれば病は癒え、狂気も静まったので、これを本尊として八幡宮の中尊に納め奉ったといいます。その後、家康が征夷大将軍になり、この八幡宮に参詣されたとき、子の縁起を深く信仰し、乞い求めて上徳寺に寄進されたといいます。

そして『京のよつぎさん』で親しまれるお地蔵さんは本殿の横の地蔵堂に安置されています。

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                                   よだれ掛け絵馬がかかる地蔵堂                               
 『世継地蔵』と呼ばれるお地蔵さんの由来は、この寺の本尊に帰依していた人が一子を失ったため、世継の子に恵まれるよう参籠していると、夢中に地蔵尊が現われたので、その尊像を写し、石に刻み、寺内に一宇を建立して安置して祈念すると立派な子が授かり、子孫も繁栄したことから、『世継地蔵』と称し、人々の信仰をあつめるようになり、『京の世継さん』と親しまれるようになったとのこと。地蔵堂の建物には重なり合うように絵馬がかかり、人々の篤い願いがうかがえます。その地蔵堂のまわりには身代わり地蔵、歯がため地蔵、水子地蔵などのお地蔵さんもまつられています。

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    身代わり地蔵                       歯がため地蔵                       

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    歓喜地蔵                         水子地蔵

               上徳寺6  延命地蔵

 源融の河原院があったといわれるこの本塩竈町には由緒のある寺院が豊臣秀吉の命により数多く移されています。そしてこの界隈には京の霊場の『洛陽四十八願地蔵』の札所が幾つかあります。洛陽四十八地蔵願は江戸中期の寛文年間に、霊元天皇の命により、僧宝山が洛外の六地蔵以外の地蔵尊中、霊験あらたかな市内の48寺の地蔵尊を選び、それぞれに名前が付けられています。上徳寺のななめ向かいにある 本覚寺 もそのひとつ。『泥附地蔵』がまつられている寺は、源融が造った河原院塩竈があったとところと伝えられ、源実朝の後室、坊門信子のより創建され、寺名は信子の法名から取られたといいます。

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    本覚寺                           新善光寺

 本覚寺から富小路通を少し下ったところにある 新善光寺に は『来迎地蔵』がまつられています。この寺には信濃善光寺の創建者といわれる本田善光の子善助によって阿弥陀如来像の分身像として造られた阿弥陀如来像が安置されています。その並びにある 極楽寺 は室町時代に一蓮社笈言によって創建され、『手引地蔵(安産地蔵)』がまつられています。

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    極楽寺                           蓮光寺

 極楽寺から少し下がると 蓮光寺 があります。この寺の創建は天台宗真盛派の開祖である真盛上人で、ここには弘法大師がつくったと伝わる、『駒止地蔵』がまつられています。そして富小路通六条下ったところにある 福田寺 には『乳房地蔵』がまつられています。この寺は嵯峨天皇の皇子で鎌倉幕府6代将軍となっていた宗尊親王が京都に送還されたのち、剃髪され一宇を建立したことにはじまるといいます。

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    福田寺                           市比賣神社

 そして、それぞれに奇談をもつお地蔵さまがまつられているお寺が並ぶ界隈で、よく知られているのが 市比賣神社(いちひめじんじゃ) です。平安遷都の翌年に都の東西市場の守護神として創建された神社の御祭神は、全て女神さまであることから女性の守り神とされ、特に『女人厄除け』の神社として多くの厄年の女性が訪れています。街中にあるこの神社は五階建てのマンションの下に社務所と参道を設け、その奥に鳥居と本殿が建っています。『女人厄除祈祷所』の幟がはためく入口には祈祷を申し込む人や祈祷を待つ人であふれ、ちょっと場違いな感がして早々に参拝し終え、境内をあとにしました。境内には『天の真名井』と呼ばれる井戸がありますが、この井戸水はかつて皇族誕生時には産湯として使われ、生後五十日目と百日目を迎える日にはこの神社で『五十日百日餅』を授かるという儀式が行われ、これが『お食い初め』の発祥といわれています。

 広大な屋敷の跡に秀吉によってつくられた寺町、ここにはそれぞれの仏さまや神さまが参る人の願いをそっと受け止めてくれる庶民の暮らしに寄り添った寺社が多いことに改めて気づかされた散策でした。

新熊野神社 ~ 後白河上皇が勧請した京都熊野三山の神社は能楽発祥の地 ~

 京都市東山区今熊野にある 新熊野神社(いまくまのじんじゃ) は熊野信仰が盛んであった平安時代後期の永暦元年(1160)に後白河上皇が紀州熊野の神を勧請して、この地にあった法住寺殿の鎮守として創建され、上皇の命を受けた平清盛が熊野の土砂や木材を用いて社殿を造営、那智の浜の小石を敷いて熊野を再現したといわれています。後白河上皇の熊野権現信仰は深く、熊野御幸は三十三度も行われています。草創以来、皇室の信仰をあつめていた神社は応仁の乱で荒廃してしまいましたが、寛文6年(1666)後水尾上皇の中宮東福門院の御所の建物寄進により再建されたといいます。

 東大路沿いにある神社の鳥居をくぐれば、大きな樟の木が天を覆うようにそびえています。

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 この樟の巨木は熊野から移植した後白河上皇お手植えのご神木といわれるもので、健康長寿、病魔退散の神として信仰されています。特に後白河上皇がお腹を患っていたことからお腹の神さまとして信仰され、『大樟大権現』と崇められている樟、まじかで見上げるとその大きさに圧倒されてしまいます。
  
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 本殿の前には『梛の木』が植えられていますが、古来この神社は『梛の宮』ともいわれ、梛の名所であったとのこと。マキ科の常緑高木である梛は熊野神社及び熊野三山のご神木でとされ、参詣者は安全を願い葉を護符として袖や笠などにつけたといいます。またその名が『凪』に通じるとして人生の平穏無事や葉の丈夫さから夫婦円満や縁結びの御守りとしても使われている木です。そして梛のご神木を間を通り、本殿に今年の平穏無事を祈願しました。

   新熊野神社6

 この新熊野神社は室町幕府三代将軍の足利義満が初めて観阿弥・世阿弥親子の能を見た場所といわれ、この演能をきっかけに義満に世阿弥は寵愛され、京都の武家・公家の支援を受け能を大成したといわれています。境内にはそれを物語る石碑がたっています。

  新熊野神社7  新熊野神社7

 熊野神社、熊野若王子神社と並び京都三熊野のひとつとなっている新熊野神社、創建時からそびえる樟の木と平和と幸せをもたらしてくれる梛の木から今年もいい年でありますように・・・との声が聞こえた様な気がして軽やかな足どりで境内をあとにしました。

豊国神社 ~ 豊臣秀吉の廟所が起源の出世開運の神と崇められる神社 ~

 京都市東山区にある 豊国神社(とよくにじんじゃ) は豊臣秀吉が祭神で知らる神社です。慶長3年(1598)63歳で没した秀吉は、その遺命によって東山の阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られ(豊臣廟)、その翌年には山腹の広大な敷地(太閤坦)に社殿80を数える壮大な神社が造られ、後陽成天皇から 豊国大明神 の神号を賜わり、七回忌には盛大な臨時例祭が行われました。しかし、豊臣家滅亡後は、徳川幕府が社殿が取り壊し、祭礼は禁じられて荒廃していましたが、明治新政府によって現在の地に再建されたといいます。現在の豊国神社はかつて秀吉が建立した方広寺の大仏殿があった場所に建てられています。

 豊国神社の広い石段の上に建つ、豊国大明神の額があげられた鳥居を入ればその先に、豪壮な唐門が建っています。

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                                   国宝の唐門

 この唐門は伏見城の遺構で、彫刻や飾金具が施された豪華絢爛な造りは桃山文化を代表する建築のひとつで国宝になっています。

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     唐門に施された左甚五郎の手によるものと伝わる『目無しの鶴』

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     拝殿と本殿

 唐門の両脇には秀吉の馬印『千成瓢箪』にちなんだ瓢箪形の絵馬がずらりと掛けられています。この豊国神社の祭神は出世頭の代表でもある豊臣秀吉ということもあり、出世開運の祈願に訪れるといいます。唐門に比べてかなり簡素な拝殿に向って、拝礼。今年一年の厄除招福を願いました。

 豊国神社と地続きの北側には、方広寺 があります。方広寺は秀吉が東大寺を模して天正14年(1586)に建立し、巨大な大仏殿を有する広壮な寺院でしたが、地震で破壊。秀吉歿後、秀頼が再建するが鋳造中に焼失したため、三度大仏の復興を志、慶長19年(1614)に完成をみるも、かの有名な『梵鐘銘文事件』が起こり、大阪冬の陣、夏の陣へと発展しし、豊臣家滅亡となったことで知られています。本堂と鐘楼が残るだけの境内は思いをはせるには寂しすぎ、難癖を付けられた梵鐘が哀れに思えてなりませんでした。

  豊国神社7  豊国神社8
    鐘楼                           『国家安康・君臣豊楽』の文字が入った梵鐘

 豊国神社の祭神の豊臣秀吉の墓所、阿弥陀ヶ峰にある 豊国廟 は勾配のきつい坂道をあがり、約560段の石段を上ったところにあります。石段下の太閤坦(たいこうたいら)はかつて豊国神社があったところで、今は桜の名所になっています。私は『花見』と言えば秀吉を連想してしまうのですが、以前、満開の桜を見にここを訪れた時に、遭ったこともない秀吉の花見の宴を連想したことが懐かしく思い出されます。

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    秀吉を祀る五輪石塔                  太閤坦の桜

 今年の桜、この豊国神社から豊国廟に歩いてみようかしらと、桜の花に思いをはせながら境内をあとにしました。
  

粟田神社 ~ 京の七口のひとつ粟田口に鎮座する『審神者』が集う『刀剣乱舞』の聖地 ~

 長いあいだ都であった京都には四方八方から街道が集まり、それらの街道の出入口にあたる土地には『』の地名がついており、俗に『京の七口』と呼ばれてきました。そのひとつ『粟田口』は東山道・東海道の出入口で、その地に鎮座する 粟田神社 は東山道・東海道を旅する人々の安全を祈願する場所であったといいます。由緒によれば、貞観18年(876)の春に神祇官並びに陰陽寮より「この年隣境に兵火ありて、秋には疫病大いに民を悩ます」と天皇に奏上されたので、天皇はただちに勅を下され、全国の諸神に国家と民の安全を祈願された。その際、勅使として藤原興世が感心院祇園社(八坂神社)に七日間祈願され、その満願の夜、夢枕に老翁が立ち、「帝都の東祇園の東北に牛頭天王(素盞鳴尊)に縁のある地があり、その地に我を祀れば国家と民は安全なり」と告げられたので、興世は夢とは思わず神意と奏上し、勅命によりこの地に社を建てて神霊を祀ったといいます。かつては粟田天王社、感心院新宮とも呼ばれていましたが、明治のはじめに現在の 粟田神社 になったといいます。また、一説には粟田氏がこの地を治めていた時に、氏神として創建したとも伝わっているようです。

 三条通面した入口には初詣の参詣者を迎える横断幕が張られ、その下には『粟田焼の発祥の地』と刻まれた石柱がたてられています。色絵磁器の粟田焼はこの地にあった粟田御所と呼ばれる青蓮院の保護により栄えたといいます。民家の私道のような参道を行くと石鳥居があり、長い石段がつづきます。

  粟田神社3  粟田神社1

 その石段を少し登ると左に、小さな鳥居と社があり、その鳥居には 鍛冶神社 の額があがっています。粟田口の地は平安時代から室町時代にかけて多くの刀鍛冶が住み、その多くの子孫が名刀を製作したといいます。この鍛冶神社はそのことに因んだ神社で、祭神の製鉄・鍛冶の神である天目一箇神と共に国宝の三日月宗近を手掛けた三条小鍛冶宗近、一期一振などを手掛けた粟田口四郎宗近が祭られています。

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    鍛冶神社                         拝殿

 鍛冶神社からさらに参道の石段を上って行くと台状の境内に、拝殿、本殿、北向稲荷神社、出世恵比寿神社などの建物が建っています。

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     本殿 

  粟田神社8  粟田神社6  
    北向稲荷神社と太郎兵衛神社            神楽殿                  

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    出世恵比寿神社                    手水舎

 この神社の例祭の粟田祭は1000年以上の歴史のある祭で、巡行する剣鋒は祇園祭の山鉾の原型となったといわれています。境内では若者たちの姿がを多くありましたが、この神社はブラウザゲーム『刀剣乱舞』の聖地のひとつとのこと。刀剣乱舞に登場する刀、三日月宗近、一期一振の製作者が祭られる神社がある粟田神社は今、そのゆかりの地として脚光を浴びているようです。

 本殿で厄除と健康を祈願、そして境内の神社を拝しました。小高いところにある境内からは平安神宮の朱塗りの大鳥居や岡崎公園などが一望できて、この季節とは思えないような暖かな陽射しに、ひと時足を止め街の風景を眺めながら深呼吸 
一年の始まりを都の出入り口であったこの地で迎えられたことに感謝して、境内を後にしました。

   粟田神社10

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