湖国 『モミジ狩り』 2 ~ 湖東の名所を廻る ~

 湖国 『モミジ狩り』 この日は関西屈指の紅葉の名所として知られる 湖東三山 から 彦根城 を廻ってきました。

 湖東三山の中で最も南に位置する 百済寺 は聖徳太子の勅願により、当時山麓に住んでいた百済からの渡来人のために創建されたと伝わる古刹。織田信長の焼き討ちによってほとんどの建物が消失したといいますが、山門から本堂に続く参道脇には、石垣や坊跡遺構が当時のまま残り、往時の姿を偲ぶことができます。

 ゆるやかな勾配のある参道に舞う落ち葉、頭上に広がる鮮やかな紅葉、何度訪れてもこの光景に感動が・・・

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    紅葉の参道                       せせらぎに浮かぶカエデ

 本坊喜見院の前に広がる池泉回遊式庭園の石組みや刈り込まれたツツジに積もったモミジ、流れに任せながらせせらぎを下るモミジは美しいの一言に集約されてしまい、ほかの言葉が思いつきません。ゆっくりと庭園をめぐり、その高台から眺める比叡や比良の山並み、その眼下に広がる湖東の田園風景は『天下遠望の名庭』といわれる言葉通りの雄大な風景をみせてくれます。

 紅葉の美しさもさることながら、百済寺に残る歴史の重みを感じながら湖東三山の真ん中に位置する金剛輪寺へ。

 金剛輪寺 は聖武天皇の祈願寺として、行基により開創された天台宗の古刹。広大な境内には国宝の本堂や、三重塔、仁王門などが立ち並び、桃山時代から江戸中期にかけて築かれた三つの庭園は四季折々に美しい姿をみせてくれます。

 黒門を入り、石垣沿いの参道を進み、左手の赤門を入れば時代の異なる三つの池泉回遊式庭園があり、老杉や松などを背景にカエデが鮮やかさを際立て静まり返った庭園を明るく染めています。灯籠、置き石、樹木などの下を覆った苔に舞い落ちたカエデは絨毯に織り込まれた絵のように見えて、足を踏み入れるのがもったいないような・・・この境内のモミジは『血染めのモミジ』いわれていますが、その鮮やかさは圧巻です。

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    境内に広がる鮮やかな紅葉             苔の上に舞うカエデ

 広大な敷地に広がる大伽藍、参道に並ぶ千体地蔵、そしてまた今年も美しい紅葉に出会えた喜びを胸に彦根に向いました。

 彦根藩井伊家三十五万石の居城 彦根城 は、井伊直政が着想し、直継が着工、直孝の代、元和8年(1622)に完成したといいます。姫路城・松本城・犬山城・松江城と並び、国宝天守を持つ城のひとつです。また、月明かりを浴びて浮かぶその幻想的な風景は琵琶湖八景のひとつ『月明・彦根の古城』に挙げられています。

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 彦根山の山頂に位置する彦根城、名所で知られている桜は葉を落とし、枝ばかりが目に付きますが、ところどころに植えられているカエデは鮮やかな色を放っています。その傍らでは冬の訪れを告げる菰巻きされた松が。

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    桜の間で紅葉する巨木のカエデ           菰巻きされた松

 現存する城の中では小ぶりの彦根城、しかし天守閣から眺める風景は雄大で、琵琶湖を一望する眺め、湖国を取り巻く山並み、城下町の彦根の町並みを見わたすことができます。そしてお城を住居としている『ひこにゃん』がゆるいキャラでお出迎えしてくれるのも楽しみのひとつです。

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 紅葉の名所として知られる玄宮園は彦根城の内堀と外堀の間にある庭園で、大池を琵琶湖に周囲の石組みや樹木を琵琶湖に浮かぶ竹生島や冲の白石に見た立てて『近江八景』を表現しているといいます。

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 園内を散策していると急に空が曇り、小雨が落ちてきて彦根城はうす暗い空の中に。玄宮園の紅葉を見下ろす美しい彦根城を見ることが出来ず・・・残念。その天気の変わりは、枝にたくさんの花を咲かせていた不断桜とともに、冬の近いことを知らせているようでした。

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       不断桜
 
 ここ数年来で久しぶりに早く見頃を迎えた紅葉、その色鮮やかさは一段と素晴らしく、目いっぱいの紅葉を楽しんだ満足いく『モミジ狩り」でした。
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湖国 『モミジ狩り』 1 ~ 湖南エリアを廻る ~

 秋の『モミジ狩り』は、春の『花見』と並んで、日本人が最も花木に親しむ機会となり、古来から数多くの歌に詠まれ、また芸術の題材や背景とされてきました。赤や黄に染められて頭上を覆うモミジ、黄金葉を風に揺らしながら舞い落ちるケヤキなどの木々に、風流人の気分を味わいたくて思いついた湖南の地をめぐってみました。

 最初に訪れたのは、豊かな自然と素晴らしい眺望が広がる 金勝山 県民の森 ここは全国植樹祭会場跡地で、『栗東八景』のひとつ『陽春の風光』として知られています。
 金勝山の山腹にある県民の森、広々とした芝生広場には子供たちのにぎやかな声が響き渡り、青空の下、心地よい風が通り抜けていきます。展望台からは、比叡山や比良の山並み、琵琶湖を眼下に周囲を取り巻く湖南の町並みを見下ろす壮大な風景が広がっていました。芝生に腰を下ろし、のどかな風景を楽しんでいると鮮やかなモミジが目に入り、思わずそのモミジの下へ。近くで見れば、枝の間から差し込む光に葉の一枚一枚が語りかけてくるように思えてきます。

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    芝生広場                         青空に広がる紅葉

 大自然と融合した紅葉を目に焼き付けて山を下り、紅葉の名所石山寺へ。

 聖武天皇の勅願により、良弁僧上が開基したとされる 石山寺 は『花の寺』として知られ、四季折々に美しい花を楽しめる境内には約1000本ものモミジやケヤキなどの木があり、全山が色づく秋はその美しさに多くの人が訪れてきます。

 瀬田川を前にしてたつ東大門を入れば、色づいたモミジが参詣者を頭上から覆い、木漏れ日がさし込む参道からは感動の声が上がり、石段を上れば天然記念物の巨大な珪灰岩の間に紅色のモミジのなかに埋もれるように美しい均整のとれた多宝塔が建っています。

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    東大門                          モミジの中に浮かぶ多宝塔

 今年は33年に一度の本尊・如意輪観世音菩薩の御開扉がされており、本堂にはいつも以上に多くの人が訪れていました。賑わう本堂や多宝塔などを離れ、源氏苑に向い境内を散策すれば、鮮やかなモミジやカエデに体中が染まっていくような気持ちになってなってきます。

   石山寺3  

   石山寺4

 紫式部が『源氏物語』の構想を考えたことで有名な石山寺、源氏苑にある紫式部像も澄み切った空と鮮やかなモミジを背景に『モミジ狩り』を楽しんでいるように思えてきます。その中にあって、冬を知らせる山茶花のピンクの花がとても新鮮に感じられたのは気のせい・・・でしょうか。

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                                   鮮やかモミジを背にした紫式部像

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 『モミジ狩り』や秘仏の特別公開で賑わう石山寺ですが、奥まったところにある八大龍王社の付近は人影もなくひっそりと静まり返り、参道を覆うように積もった落ち葉を踏みしめるサク、サクという足音だけが聞こえ、晩秋の気配が感じられました。その寂しい風景のなかで、庭園に植えられた常盤山査子(別名・ピラカンサ)の赤い実が、存在感を示しあたりに明るさをもたらしていました。

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 鮮やかな紅葉と晩秋から初冬への季節の移り変わりを花で教えてくれる石山寺は『花の寺』にふさわしいところでした。

 そして、琵琶湖を対岸から眺めようと比叡山へ。

 東塔、西塔、横川の三つの地域から成る比叡山延暦寺、ドライブウェイの脇には色づいた木々がや枯れ尾花となったススキなどが風に揺れ、晩秋の風景が広がり、最も北に位置する横川に着いたときは陽がかなり西に傾いていました。比叡山の紅葉はこの辺りが見栄えがするようで、多くの観光客が訪れ、横川中堂や元三大師堂の白砂に映える紅葉に感嘆の声が上がっていました。

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    横川中堂

 ドライブウェイを堅田方面に下りながら見下ろす琵琶湖、夕陽を受けてひらめく光景に数十年前に初めて見た時のことが懐かしくよみがえり、年齢を重ねた分だけ感動的に思えました。そして、紅葉を廻る風流人の一日は終わりを告げました。

 

瑞泉寺 ~ 豊臣秀次とその一族の菩提を弔うために建立された寺 ~ 

 三条大橋の西南詰め、『東海道中膝栗毛』の主人公で知られる『弥次さん喜多さん』の像の向かいにある 瑞泉寺 は、豊臣秀次とその一族を弔うため、角倉了以が創建したことで知られている浄土宗のお寺で、寺名は秀次の法名から名でけられています。。豊臣秀次は嫡嗣のなかった秀吉の養子となり、豊臣家の家督を継ぐも秀頼の誕生により次第に疎んぜられ、高野山に追放され切腹させられ、その子供や側室などの女性三十数名が当時河原であったこの地で処刑された事件として知られています。そして、その遺体は無惨にもその場に掘られた大きな穴に投げ込まれ、その上に『殺生塚』と呼ばれる大きな塚が築かれたといいます。その事件から16年後、高瀬川の開創を受けた角倉了以は、洪水などで荒廃した『塚』を拝み、実弟が秀次の家臣であったという縁から秀次一族を弔うための墓地と寺をこの地に建立したといわれています。

 高瀬川に架かる三条小橋の南側、木屋町通に面してたつ薬医門を入れば、ビルの谷間に閑静な境内が広がっています。

  瑞泉寺1  瑞泉寺2
    高瀬川

  瑞泉寺3  瑞泉寺4

 手入れの行き届いた境内の一角に豊臣秀次一族の墓があります。

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 秀次の墓石を中心に整然と並ぶ子女と妻妾の墓石、塵ひとつない白砂に思いが感じられ胸が熱くなります。

 創建当時の堂宇は天明の大火で焼失し、その後再建された堂内では『京都非公開文化財特別公開』が行われており、『瑞泉寺縁起』『秀次公縁起』などを貴重な寺宝を拝見することができました。なかでも処刑さた女性たちの自生の懐紙を遺品の衣装の『裂(きれ)』で表装した『伝来法具裂』は桃山時代や慶長期の辻ヶ花染めなどの染色や豪華な刺繍に目を奪われました。

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    本堂                            引導地蔵尊

 また、境内にある地蔵堂に安置されている地蔵菩薩は、処刑が行われた際四条・大雲院の僧貞安上人が刑場に運び込み、処刑される子女たちに引導を授けたと伝わるもので、極楽浄土へ死者を導く『引導地蔵尊』として崇敬されているそうです。

 京都を象徴する鴨川のほとり、閑静な寺の境内で悲劇の一族の穏やかであろう姿の偲びながら、お寺を後にしました。

 

錦天満宮・蛸薬師堂 ~ 新京極周辺の寺社 ~

 四条通から北に向かって新京極通を150mほど歩くと右手に『錦の天満宮』と呼ばれ親しまれている 錦天満宮 があります。錦天満宮は、平安時代前期に菅原道真の生家・菅原院に創建され、道真死後は歓喜寺と改称された際に鎮守社として祀られ、天正年間にこの地に移転、明治維新の神仏分離政策により寺から分離して神社だけがここに残ったといいます。

 賑やかな繁華街から御神燈提灯の掲げられた門を入ると、こじんまりとした境内にはビルの谷間からの木漏れ日を受けて季節の花が咲き、本殿や社務所などが建っています。本殿に向い拝礼していると、修学旅行生のグループが訪れてきて、受験の御守りを手に急いで神社を後に街中に消えて行きました。菅原道真公のご利益が彼らに届く様に・・・もう一度、手を合わせました。

 誓願寺8  誓願寺10

       誓願寺9 ユニークなロボットの獅子舞みくじ

 錦天満宮の門前から始まる『京の台所』 錦市場、今では食材を求める地元の人々、国内から訪れる観光客よりも、外国人の観光客の方が多いように見受けられますが、この天満宮にもその外国人が幾人も見受けられ、改めて日本への関心が高まっていることを感じました。

 錦天満宮のある錦小路から一筋北の蛸薬師通の入口には『さかれんげ阿弥陀如来』で知られる 安養寺 があります。倒蓮華寺 とも呼ばれるこの寺は、恵心僧都が奈良の當麻に建てた蓮台院がはじまりで、その後、恵心僧都の妹・安養尼が引き継ぎ、安養寺と改名したといいます。本尊の「さかれんげ阿弥陀如来」は奈良春日明神の真作と伝わり、一般には仏様の台座の連花は上向きに作られていますが、ここの阿弥陀様は下向きの蓮花におかれている「さかれんげ阿弥陀如来」で、男子の心の蓮花は上に向い、女人の心の蓮花は下に向って逆さまとの説から『女人往生如来』といわれています。

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 安養寺から通りを挟んだ鵜飼い側にあるのが蛸薬師堂 。正式名は 永福寺(または妙心寺) ですが、堂内に安置する本尊・石造薬師如来を『蛸薬師』と俗称していることから 蛸薬師堂 の名で京の人々の篤い信仰を集めています。『蛸薬師』呼ばれるようになったのは、永福寺の僧が病気の母親の好物の「タコ」を買ったが、仏門にいるものが生ものを買ったととがめられて、入れていた箱を開けることを命じられ、それを窮した僧は本尊の薬師如来を一心に念じ、箱のふたを開けると「タコ」は薬師教に変わっていて、母親も本復したとの霊験譚からといいます。

 赤い幟がはためく境内は、一歩踏み入れただけでも蛸薬師様のご加護が得られるといわれ、ガン封じ、病気平癒、諸願成就に訪れる人でにぎわっています。

  蛸薬師堂4  蛸薬師堂5

 蛸薬師堂の脇から奥に入るとそこには、北日やかな大黒天や京極稲荷、七福神などの神さまが並び、なんとも明るい雰囲気が漂うエリアになっていました。神仏そろい踏みのような明るい蛸薬師、確かに一歩踏み入れてだけでご加護があると思えました。

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 また、新京極通の一本東側の裏寺町通には江戸時代中期の絵師・伊藤若冲の菩提寺 宝蔵寺 があります。通常は非公開ですが、特別公開がされていたので拝観してきました。宝蔵寺 は弘法大師空海の創立と伝えられ、文永6年(1269)如輪上人により開基されたといいます。この宝蔵寺には伊藤若冲が建立した父母、弟の墓石、若冲派の作品が残されています。

  蛸薬師堂9  蛸薬師堂10

 京都で屈指の繁華街、いつもは何気なく通り過ぎていた寺社に立ち寄り、そこに伝えられている多くの逸話や成り立ちを知ることができた、京都再発見の散策でした。
  

誓願寺・誠心院 ~ 若者で賑わう通りに建つ女人ゆかりの寺 ~ 

 京都の中心部、三条通から四条通まで、南北に延びる 新京極通 は明治5年(1872)につくられた通りで、両側に飲食やファションなどの店が立ち並び、若者たちで賑わうエリアです。この通りのある地は豊臣秀吉の都市改造によって登場した寺町通に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用されるようになったため、各寺院が境内を整理し、道路としてつくられたのがはじまりといいます。浄土宗西山深草派の総本山 誓願寺 は、その新京極通にある六角公園の東に位置する寺院です。天智天皇の勅願寺として恵陰が奈良に開創したことがはじまりで、平安遷都の際に深草に移り、のちに上京の元誓願寺通小川に移転、現在の地には秀吉の命により天正年間に移動したといいます。当時は京都有数の規模を有し、多数の堂宇、山内寺院が18カ寺あったといいます。それらの堂宇は京極高次の妹で、秀吉の側室であった松の丸殿の助力により整備されたといいます。

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    新京極通                         誓願寺

 朱塗りの鮮やかな表門の前には『迷子の道しるべ』と書かれた石柱がたっていますが、これは尋ね人や落とし物を記した紙を貼る掲示板の役目をしていたものとのこと、情報を得ることが難しかった当時が偲ばれます。表門と本堂の距離の短い誓願寺は、入るとすぐに開かれた扉の奥に金色の阿弥陀如来像を拝むことができます。安置されている阿弥陀如来像は賢問子・芥子国父子のよって造られたもので、二人は別々の部屋で仏の半身を彫っていましたが、合体すると寸分違わず合致して見事な仏像に出来上がったといわれています。

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 誓願寺は清少納言、和泉式部、松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高く、また洛陽三十三観音霊場、新西国三十三観音霊場などの札所として多くの参拝者が訪れています。また、表門のすぐ南側に『扇塚』と呼ばれる五輪塔には、この寺を舞台にした謡曲『誓願寺』に和泉式部が歌舞の菩薩となってあらわれることから、芸事の上達を祈願して、扇子を奉納する人が多いといいます。さらに、桃山時代の誓願寺55世安楽庵策伝上人は僧侶として布教に励むかたわら、教訓的オチのある笑い話を集めた『醒睡笑』の作者として知られ、『落語の祖』と称されています。

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      扇塚

 この誓願寺には寺宝の『誓願寺縁起絵』がありますが、今年の『京都非公開文化財特別公開』では21年ぶりに公開されていました。三幅からなる本縁起絵は第一・第二幅に創建から鎌倉初期に至るまでの由緒と霊験を、第三幅に鎌倉中期から室町きにかけての霊験が描かれていており、その丁寧な筆致に驚きました。

 そして誓願寺から少し南に歩くと 誠心院 があります。『和泉式部寺』とも呼ばれ、その寺名は和泉式部の法名に由来しているといいます。藤原道長の娘・上東門院彰子に仕えてていた和泉式部は、彰子が建てた東北院の中に小堂を建立したことがはじまりの寺は、天正年間に現在の地に移転し、隣接する墓地に和泉式部の墓所とされる宝篋印塔がたっています。

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    アーケードの下にたつ山門              本堂

 情熱の恋愛歌人として数々の恋に生きた和泉式部、その晩年は娘に先立たれ、その哀しみから尼僧となり、寺にこもって一心に念仏を唱えたところ、めでたく往生をとげたといいます。若者で賑わう街中にあるふたつの寺院、一歩足を踏み入れればそこには幾つもの伝説や逸話が存在していて、奥深い京の魅力を再発見しました。

護王神社 ~ 「いのしし神社」で親しまれる足腰の守護神を祀る神社 ~

 京都御苑の蛤御門を出て烏丸通を少し南に歩くと『足腰を守護する神社』として信仰の篤い 護王神社 があります。和気清麻呂とその姉広虫を主神とした神社は、文覚上人が和気氏の氏寺であった神護寺を再興する際、清麻呂を護王善神として境内にまつり、鎮守社としたことがはじまりといいます。その後、孝明天皇が清麻呂に護王大明神の神号をあたえ、明治7年(」1874)に護王神社と改称、明治19年(1885)に現在の地に移築されたとのこと。

 烏丸通に面した鳥居をくぐり、境内に入るとすぐ右手にある手水舎には「鼻をなでると幸せが訪れる」といわれているブロンズの猪の像があり、その鼻先からは水が水盤に流れ落ちています。

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  護王神社4  護王神社5
    霊猪手水舎                        猪の像が置かれた拝殿

 拝殿の前には狛犬ではなく、狛猪の石像が置かれていますが、これは和気清麻呂が、称徳天皇(孝謙天皇)の寵を得た道鏡の怒りをかって大隅国に流されたとき、猪が清麻呂を守ったという故事にちなんだもので、そのことから『いのしし神社』の別名で親しまれています。また、その際に足が萎え立てなくなった清麻呂は霊猪のお陰で回復したという説もあって、護王神社が『足腰守護の神社』としても信仰されており、本殿前にそびえ立つオガタマの木の根本には『願掛け猪』の石像が置かれ、その周りには足腰の健康祈願の座立亥串がたくさん立てられています。

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    本殿                            境内にたつ和気清麻呂像

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    座立亥串と足萎難儀回復の碑            さざれ石          

 祭神の和気清麻呂は、大隅国に流されていた清麻呂は、称徳天皇が崩じて道鏡が没すると京に戻されて桓武天皇に重用され、長岡京の造営やや平安京の造営大夫として活躍し、姉の広虫は清らかで慈愛心の深い人柄から歴代の天皇から重用され、戦乱で生じた孤児たちを養育したことから『子育明神』と称され育児の神として信仰されています。

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    ぜんそく封じのカリンの木               いのししコレクション

 表門の近くで境内を見守るようにそびえるカリンの木は樹齢100年を超える巨木で、『ぜんそく封じのご神木』といわれています。また、社務所の横には奉納された「いのしし」類が並び、目を楽しませてくれます。

 そして、足腰の健康を祈願したご利益か、境内を後にする足取りはどこか軽やかに感じられました。

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