正法寺(藤の寺) ~ 戦国時代の英雄、蒲生氏郷のゆかりの地に咲く花をめぐり ~

 滋賀県南東部、鈴鹿山系に西麓に位置する 日野町 、『近江商人発祥の地』として知られるこの町は、戦国時代の武将蒲生氏郷の生誕の地でもあります。百足退治で名高い、俵藤太秀郷を祖先とし、近江諸語大名六角氏に仕えていた蒲生賢秀の三男として生まれた氏郷は、少年時代から織田信長に仕え、織田信長亡きあとは豊臣秀吉に従った有能な武将でありながら、茶道では利休七哲のひとりという文化人、さらには『レオ』という洗礼名をもつキリシタン大名でもあったといいます。日野にいち早く楽市楽座を開いて町の活性化に努め、当時は文武両道の達人といわれた氏郷は、病のため40歳の若さでこの世を去ったといいます。その後衰退していた町は、江戸時代に日野椀や薬の行商で財を成した商人が町並みを築き、商人の町として発展し、今もその歴史ある町並みに当時の面影を見ることができます。

 『近江商人と花のまち』のキャッチフレーズの日野は自然に恵まれ花の名所もいくつかありますが、日野町鎌掛にある『藤の寺』として親しまれている 正法寺(しょうぼうじ) もそのひとつ。 正法寺 は元禄5年(1692)に普存という禅僧が、もと八阪神社の脇にあった観音堂をこの地に再興したことが始まりで、本尊の十一面観世音菩薩はこの里の安産の守護仏として深く信仰されているお寺です。『後光藤』の名で親しまれている藤は、開基の普存禅師が京の仙洞御所から移したといわれる『ノダフジ』で、樹齢320年を超えるとのことに驚きを感じます。

 正法寺の入口にある『日野ダリア園』の牡丹の甘い香に迎えられて、山門を入ると向かい合って地蔵堂と閻魔堂が建ち、地蔵堂には半跏倚像と呼ばれる片足を下げた石造の地蔵尊が安置され、閻魔堂では恐ろしい顔の閻魔大王が睨んでいます。

  正法寺1  正法寺2
                          日野ダリア園の牡丹

  正法寺3  正法寺4
    地蔵堂                           閻魔堂

 境内の真ん中にある放生池の先には秘仏(33年に一度御開帳される)の本尊が安置されている本堂が建っています。

  正法寺5  正法寺6
    放生池                           本堂

 そしてお目当ての藤は放生池から本堂までの続く藤棚で枝を広げ、ほんのりと甘い香りを漂わせながら蕾を開きかけています。

   正法寺7

   正法寺8

 蜜を求めて飛び交う蜂、その中で花房を広げるて悠然と咲き乱れる藤、風に花房を揺らす藤・・・藤はどこか優雅で風情を感じる花に思えてくるのですが・・・また、鎌倉時代の作といわれる石造宝塔や天満宮などの建物が建つ山手から見下ろす藤も見応えがあります。

   正法寺9

 そして、この正法寺から少し奥に入った鎌掛谷には国の天然記念物に指定された『ホンシャクナゲ群落』があります。本来ホンシャクナゲは高山植物で、標高350mの低地で群生しているのは大変珍しいといわれています。新緑で眩しい渓谷に咲く淡いピンクの花を見ながらの散策は身も心もリフレッシュできる最高の贈り物でした。

  正法寺10  正法寺12

   正法寺11
     鎌掛谷ホンシャクナゲ群落

 鈴鹿山系の麓のある日野町、四季折々の自然を満喫するには最高の場所、また自然を求めて歩きたいと思います。
スポンサーサイト

高遠ゆかりの武将の寺をめぐる ~ 建福寺・満光寺  ~

 桜の名所として知られる高遠、その美しい桜の風景は町の各所で見ることができます。

   高遠1 
 
   高遠2

 歴史ある町には歴史に名を刻んだ人々のゆかりある寺院もあります。安元2年(1176)、文覚上人が本堂裏手『独鈷の池』あたりに開創したのが始まりとされる 建福寺 はその後、鎌倉の建長寺を開山した大覚禅師が乾福興国禅寺を建立したと伝えられ、保科氏が 建福寺 と改号し菩提寺となったといいます。また、歴代高遠城主の信仰も厚く、武田、織田、保科氏から与えられた多くの古文書が残されているそうです。

 町の中心部を走る通りから少し路地を入ると建福寺の参道になっている急な石段が見えてきます。 その参道の石段の両側にはたくさんの石仏が置かれていますが、これらは高遠の石工たちにより作られた石仏とのこと、その数に驚きます。

  高遠3  高遠4

 そして山門を入ると広々とした境内が広がり、本堂の西側に武田勝頼の生母諏訪御料人、保科氏の墓碑がたっています。

  高遠5  高遠6

 建福寺から東に進むと 満光寺 があります。天正元年(1573)に笈往上人により開山された浄土宗の寺は、旧藩主内藤家の菩提寺で、本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代の仏師快慶の作と伝えられ、霊仏といわれているそうです。

  高遠7  高遠8

 石段の先にある鐘楼をかねた楼門は江戸時代に建立で、すべて『シナの木』で造られ、禅宗様式が取り入れられた張りのある屋根に巧妙な彫刻がほどこされるその壮大なもの。その偉観ある門を入ったところでは『極楽の松』と呼ばれる枝ぶりの見事な黒松が目にとまります。この黒松は高遠城主であった武田信玄の弟・信廉が、自ら高遠城内から移植したもので、『ひとめ見ることにより、必ず極楽へ往生できる』といううわさが広まりいつの頃からか『極楽の松』と呼ばれるようになったとのこと。あやかりたいと思い松の木の周囲を一周してしまいました。

   高遠10

 この満光寺は『シナの木』を用い、善光寺になぞらえて建てられたことから『伊那善光寺』「信濃の科寺』とも呼ばれ、多数の末寺を有していたといいます。

    高遠9

 明治期に花火により本堂、庫裏はる焼失、しかし唯一残った楼門に当時の伽藍の大きさが想像されます。

 桜見物で賑わう町で訪れた寺院、それぞれが小高いところに位置していて、時折耳にする鳥の声と風の音がなんとも心地よい空間に包まれていました。

 華やかな桜色の城跡、静かな寺院の境内、アルプスの山並みを望める風景は季節をかえて訪れてみたい町でした。

 

2016 桜紀行 3 ~ 高遠城址を染める薄紅色の桜 ~

 全国有数の桜の名所で知られる 高遠 は中央アルプスと南アルプスにはさまれた天竜川沿いを南北に伸びる伊那谷の東側に位置する町。中でも色の美しさと規模の大きさから『天下第一の桜』とうたわれる『タカトオコヒガンザクラ』が植えられた 高遠城址公園 は桜見物で一度は訪ねてみたいところのひとつです。

 古くから諏訪氏の勢力圏にあった高遠は南北朝の頃からその支族の高遠氏が一円を治めていましたが、天文年間に駿河や遠江に進出するための交通の重要な拠点であったことから武田信玄の侵略に遭い、その旗下に屬しました。高遠の地を手に入れた信玄は高遠氏の居城であった高遠城を拡張改築しますが、その築城に関わったのが山本勘助と伝えられています。武田氏滅亡後は徳川家家に仕えた保科氏が治め、保科氏の転封に伴い鳥居氏が入城、その後内藤氏が明治維新まで治めて明治5年(1872)に廃城となっています。

 城下町高遠と桜の縁は明治維新の頃に遡り、廃藩置県によって荒れ果てた城址に心を痛めた住民が一本、また一本と桜の木を飢植えていったのが始まりで、今現在も町の各所で植樹が行われているといいます。

 小高い丘の上にある城址の坂を上がると三の丸址があり、そこは春とは思えない青空を桜の花が天井のように覆っています。

   高遠城跡1
     三の丸址

 旧藩校の進徳館や高遠閣などの建物がある城址はどこもかしこも桜、桜、桜・・・それを見る人、人・・・人の群れに押されるような城跡に響く感嘆  そこには薄紅色の魔力が潜んでいるかのような光景が広がっています。

  高遠城跡2  高遠城跡3
    進徳館                           高遠閣

  高遠城跡6  高遠城跡7

 なかでも『桜雲橋』はビュースポットとして人気の場所で、写真を撮る人、撮られる人でにぎわっています。

   高遠城跡5
     桜雲橋の入口のある問屋門

   高遠城跡4
     桜雲橋

 そして本丸址の突端からは峰に残雪を頂いた中央アルプスの山々を望むことができます。

   高遠城跡8

 人々を虜にする赤みを帯びた『タカトオコヒガンザクラ』は武士の流した血の赤みになぞられていますが、ここは武田氏滅亡の最後の戦いのあった場所といいます。

 高遠城址公園の咲き乱れる桜を堪能して高遠湖に向かう途中には歴史博物館があり、入口には名君といわれる保科正之公と生母お静の方の顕彰碑が立っています。保科正之は徳川二代将軍秀忠の子として誕生しますが、正室の嫉妬を恐れて高遠藩保科家に養子として出されこの地で文武に励むとともに城外では領民の生活を学び、異母兄の三代将軍家光を補佐したといわれています。そして生涯、万民の幸福を考え続けたと名君として知られています。

   高遠城跡10

 またこの高遠は江戸中期に起きた『絵島生島事件』の中心人物の絵島が事件後、幽閉された地で、この歴史博物館の敷地には幽閉されていた建物の『絵島囲み屋敷』が復元されています。

  高遠城跡11  高遠城跡12

 大奥での華やかな生活から一転、朝夕の一汁一菜の食事、質素な木綿の衣服、唯一許された日蓮宗の寺への参拝の幽閉生活は27年に及び、晩年になってようやく許された囲み屋敷周囲の散歩と月に何度かのお城に勤める女性たちの躾の指導の生涯だったといいます。300年も前の出来事はは文献や小説に描かれたことで想像することになりますが、御仏に祈るしかなかった生活、今の私にできるのかと・・・なんともやりきれない思いがします。

 華やかな絵巻物のような高遠城址公園、その美しい風景に酔いしれながら見上げた東には仙丈ヶ岳の頂きに輝く残雪が眩しく、そして限りなく雄大な風景がありました。

   高遠城跡13



2016 桜紀行 2 ~ 上越 高田公園の桜 ~

 新潟県上越市にある 高田公園 は『さくらの名所100選の地』 、また青森県の『弘前公園』 東京都の『上野恩賜公園』とともに『日本三大夜桜』のひとつになっている桜の名所です。この高田公園は徳川家康の六男・松平忠輝の居城 高田城 があったところ。天守閣や石垣が築かれず、三重櫓がシンボルの城は忠輝の義父伊達正宗を筆頭に前田氏、上杉氏、真田氏など13の大名が賦役を承った大工事で、着手からわずか4カ月足らずで竣工したといいます。しかしその2年後、忠輝は突然高田城から追放され、以来65年に渡る配流生活を送り、92歳で諏訪藩高島城南の丸で世を去ったといいます。明治の初めに廃城となった高田城の跡地に旧陸軍駐屯地司令部が入城、その時に桜が植えられたそうです。

   高田公園1
      平成5年(1993)に復元された三重櫓

   高田公園2
      内堀に映える三重櫓

   高田公園3
     内堀に架かる極楽橋と満開の桜に色を添える菜の花

 満開の桜で賑わう本丸跡を行き交う人の顔は皆晴れやかで、笑顔が飛び交っています。

 古今和歌集の中でで在原業平が詠んだ

     世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

 のように桜はひとの心を騒ぎ立てる力を持っている花・・・改めて感じました。

 そして東三の丸広場にある花見本園では28種もの桜が植えられ、珍しい桜も鑑賞することができます。

  高田公園5  高田公園6
    三の丸跡                         桜見本園

 『高田城 百万人 観桜会』を盛り上げる『さくらステージ』があるエリアでは桜のトンネル・さくらロードが華やかに迎えてくれました。桜を堪能しながらさくらのトンネルを歩けば、シダレ桜の横に満開のソメイヨシノが圧倒的な存在感を示し咲き誇っています。案内を見れば『開花宣言』の調査木で、なんと樹齢100年とのこと  見事な桜です。

  高田公園7  高田公園8
    さくらロード                        シダレ桜

  高田公園9  高田公園10
    満開の『開花宣言』 調査木             残雪と満開の桜  

 満開の桜に酔いしれて散策しているうちに、かの西行の歌を思い出しました。

     願はくは花の下にて春死なん如月のその望月の頃 

 そんな気持ちになりながら満開の高田公園をあとにしました。          
    

春日山林泉寺 ~上杉謙信の菩提所 ~

 春日山の麓にある 林泉寺 は上杉謙信が7歳から14歳まで、天室光育大和尚の下で禅と文武の修行を学び、さらに益翁宗謙大和尚について禅の教えを学び、常に自己を見つめて精進したと伝えられています。謙信が葬られているこの林泉寺は、明応6年(1497)、越後守護代長尾能景が亡父の17回忌に長尾家の菩提所として曇英恵応禅師を開山として創建され、歴代城主・藩主の菩提所とする古刹です。

 静まりかえった境内の入口には、春日山城の裏門を移築されたという茅葺きの惣門が建ち、その先に仁王像が安置された二階造りの山門がそびえ、謙信直筆の『春日山』『第一義』の大額が掲げられています。

   林泉寺1

  林泉寺2  林泉寺3
    山門                            山門の天井に描かれている龍

 山門を入ると一直線に伸びた石畳の先に釈迦牟尼仏を安置した本堂が建っています。

  林泉寺4  林泉寺5

   林泉寺6

 境内に建つ宝物館には唯一現存する謙信の肖像画、直筆の大額や春日山城図や仏像、甲冑、各城主ゆかりの品々が展示され往時をしのぶことができます。

   林泉寺7
     宝物館

 本堂の左手を上って行くと謙信公、歴代城主の墓が立ち並んでいます。苔に覆われた地面には春の赤紫のカタクリの花が明るい春の陽ざしに包まれて一面に広がっていました。そして謙信公の墓と並ぶように川中島戦死者の供養塔も。

  林泉寺8  林泉寺10
                                   カタクリの花

  林泉寺11  林泉寺12
    謙信公の墓                       川中島戦死者の供養塔

 『義』を貫くための戦いに明け暮れた謙信、49年で永遠の眠りについたのちも、その『義』の精神は跡を継いだ上杉景勝、直江兼続らによって受け継がれたといいます。

 戦国の歴史にかかせない上杉謙信、その上杉謙信をひもとくに欠かせない林泉寺、季節をかえて訪れてみたいと思います。
 

春日山城跡 ~ 戦国の名将 上杉謙信の居城 ~

 新潟県上越市は『越後の龍』や『越後の虎』と呼ばれる 上杉謙信のふるさと 戦国時代・享禄3年(1530)、越後守護代長尾為景の末子として誕生した虎千代(のちの上杉景虎)は19才の時に兄の晴景に代わって守護代として『春日山城』に入城、そして此処を居城に武田信玄、北条氏康などと激闘を繰り広げますが、それは助けを求める武将のためで、私利私欲で戦をするものではなかったといいます。川中島の決戦をはじめとした戦歴で、戦闘を指揮すること数百回、自ら陣頭に立って城を攻めること70余回を数え、天下にその名を示し、名門上杉氏から上杉の姓を贈られ関東から北信濃、越後、加賀にいたる大勢力を扶植します。その反面深く仏門に帰依し、謙信の法号を名乗り、生涯不犯を誓いそれを守り通した戦国時代にあって、ひときわ異彩を放つ武将でもあります。

 長尾為景・春景・上杉謙信・景勝の4代の居城であった春日山城は標高180mの春日山に築かれた壮大な山城でしたが、慶長3年(1598)、上杉景勝が会津に移封後に越後を支配した堀氏が直江津港に近いところに福島城を築城したことにより、春日山城はその役目を終えたのです。

 春日山城は日本百名城のひとつで、その遺構は全山に及んでいます。そしてそこからは遥かかなたに日本海や頸城平野、それを取り巻く山並みや街並みを一望することができます。かつて上杉謙信も眺めたであろう風景・・・戦国へのロマンがたかまります。

   春日山城跡3

   春日山城跡10

   春日山城跡4
 
 春日山城跡の高台には凛とした姿の謙信の銅像がそびえ立っています。その奥に立つ 春日山神社 は童話作家・小川未明の父、澄晴が発起して明治34年(1901)に創祀され、山形県米沢市の上杉神社より分霊された謙信公が祭神として祀られています。

  春日山城跡1  春日山城跡2 
                                    謙信公の銅像                 

  春日山城跡5  春日山城跡6

  春日山城跡7  春日山城跡9

   春日山城跡8

 石垣の代わりに自然の起伏を生かした春日山城、その広大な敷地に残る遺構の数々は歴史をひもときながら戦国時代へといざなってくれます・・・そして自然が織りなす風景は四季折々に触れてみたいと思わせてくれました。  
 

2016 桜紀行 1 ~ 賀茂川堤の桜 ~

 桜の開花とともに訪れる日本の春。各地から桜の便りが届き始めると、身も心も弾みます。中でも京都の桜は三方が山に囲まれているため街中と山中との気温差があることや種類が多いこともあり、季節をずらして長い期間人々に春を楽しませてくれます。

 桜の名所に事欠かない京都でもこの季節になるといつも歩きたいところがあります。それが賀茂川堤の桜です。出町柳から北に流れる賀茂川の両岸の堤はソメイヨシノ、ヤマザクラ、ベニシダレサクラなどが咲き乱れる桜のトンネル・・・ピンクがかったつぼみに始まり、満開の華やかさ、風に舞い落ちる花びらはそこに佇むだけで春を独り占めしている気分になってきます。

   賀茂川堤1 

   賀茂川堤2

 なかでも、北大路通から北山通の間の京都府立植物園の西側に沿った道は 半木の道(なからぎのみち)と呼ばれる散歩道で、鮮やかなベニシダレザクラだけがとぎれなく連なっています。

  賀茂川堤3  賀茂川堤4

   賀茂川堤5
     ベニシダレザクラのトンネルはまだ少し早く・・・・

   賀茂川堤6
     満開の頃のベニシダレザクラは圧巻

 京都の桜の名所は寺社に多く、それぞれに名のある桜が存在しています。半木の道にある京都府立植物園はその多くの品種を一堂で楽しめる絶好の場所。

   賀茂川堤9

   賀茂川堤8

 70品種、500本をも数える桜が、春の花とともに園内を彩る光景は花好きな人のみならず、訪れた人々を夢の中に誘い込んでくれます。広大な園内で散策しながら、思う存分桜を堪能して再び半木の道にもどり、賀茂川堤を北に向います。そして、北山大橋を超えると、まばらながらソメイヨシノが頭上を覆い、足元では今を盛りにユキヤナギが花を開き甘い香りを漂わせていました。

  賀茂川堤7  賀茂川堤10

 穏やかな陽射しが降り注ぐ春の一日、のんびりと歩く賀茂川堤、今年の春がはじまりました。

プロフィール

ポピーランド

Author:ポピーランド
FC2ブログへようこそ!

アクセスカウンター
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR