「 西ノ京・山口 」 2  洞春寺 ~ 毛利元就の菩提寺 ~

 香山公園の横にある 洞春寺 は大内氏に代わってこの地を治めた毛利元就の菩提寺。もともとこの地には大内盛見が創建した国清寺があり、明治になって萩から洞春寺が入ったといいます。 

 入口に立つ山門はその国清寺の遺構で、彫刻の無い室町時代禅風山門の代表的なものといわれています。

   山口・洞春寺7

 両側に松を配した参道を進むと表門と鐘楼門が並び、境内に入ると正面に本堂、左手に観音堂が建っています。

  山口・洞春寺1  山口・洞春寺4

  山口・洞春寺2  山口・洞春寺3

 観音堂は近くにあった観音寺の仏殿を大正時代に移築したもので、創建は室町時代といわれ、禅宗様式建築の室町時代らしい趣きを感じることができます。

 また、大内持盛が朝鮮に求め、国清寺にあった経蔵は毛利輝元によって滋賀県大津市の園城寺(三井寺)に寄進され、この寺には現在、礎石のみが残っています。

   山口・洞春寺8
     園城寺に移築された経蔵

 香山公園の一角、松やカエデなどの木々に囲まれた中に、足音が反響して音がする『うぐいす張りの石畳』といわれる参道から石段をのぼったところに毛利家墓所があります。

  山口・洞春寺5  山口・洞春寺6
    うぐいす張り石畳                    毛利家墓所

 この香山公園を含め山口は、室町時代から明治維新にかけて多くの歴史が残されているところ。いつかまた機会があれば、この歴史のあるこの地を訪れたいと思いながら山口を後にしました。
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「 西の京・山口 」 1 瑠璃光寺 五重塔 ~ 大内文化を代表する建築 ~

 山口は、中世に京に憧れた大内氏が都に模した街づくりをし、「 西ノ京 」として栄華を極めた街で、そこには都からの貴族文化や九州からの大陸文化が混じった独自の文化を見ることができます。その大内文化を代表する建築である国宝 瑠璃光寺 五重塔を訪ねてきました。
 
 室町時代、山口を拠点に九州北部や中国地方を中心に西国一の勢力を誇り、約200年に及ぶ栄華を築いた守護大名・大内氏。大内氏の祖は朝鮮百済国聖明王の第三王子・琳聖王子で、推古天皇の19年周防国多々良の浜(今の防府市)に着岸し、聖徳太子より大内県を賜り多々良を氏としたといわれています。そして1360年ごろ、24代・大内弘世が居館を山口に移し、貿易で莫大な富と権力を蓄え中世戦国大名の雄として君臨、さらには応仁の乱で京を逃れた多くの公卿文人たちが来山、大内文化はますます栄えたのですが、1551年に重臣・陶晴賢の謀反により31代・大内義隆が自刃して大内氏の正統は断絶したといいます。

 瑠璃光寺 五重塔 は香山公園の中にあります。

  瑠璃光寺1  瑠璃光寺2
                                   大内弘世像

 瑠璃光寺の境内を入ると右手の池の向こうに優美な姿の塔がひっそりと木立に包まれてたっています。

   瑠璃光寺3

 ここは25代・大内義弘が建立した 香積寺 が建っていたところで、義弘が応仁の乱で戦死したためその菩提を弔うために弟の盛見が五重塔の建立を計画、嘉吉2年(1442)に完成したといいます。勾配のゆるやかな檜皮葺の屋根の塔は日本三名塔(法隆寺・醍醐寺)のひとつに数えられています。

  瑠璃光寺9  瑠璃光寺10

 大内氏が滅び毛利氏が領することとなった香積寺は、毛利氏が関ヶ原の戦いに敗れ萩に移る際に解体され、跡地に瑠璃光寺が入り、解体におりにこの五重塔も取り壊されそうになったが、町民の嘆願書で塔は取り残されたといいます。境内にある資料館でその史料を見て、大内文化の華ともいえる五重塔が優美な姿を目にすることのできることに改めて感動しました。

 五重塔を境内に持つ 瑠璃光寺 は応仁2年(1468)、応仁の乱で戦死した陶弘房の妻が夫の菩提を弔うために弘房の念持佛の浴し如来を本尊として建立した 安養寺 を移建し、のちに瑠璃光寺と改名したといいます。

  瑠璃光寺5  瑠璃光寺4
    瑠璃光寺 山門                     瑠璃光寺 本堂

  瑠璃光寺7  瑠璃光寺8
    瑠璃光寺 身代わり地蔵               瑠璃光寺 長寿薬師如来

本圀寺 ~ 山科疏水のほとりに佇む加藤清正ゆかりの寺 ~ ~

 琵琶湖から京都の東・蹴上へと続くインクラインに沿って流れる山科疏水の両側の遊歩道は桜並木が続き、桜の頃は花を愛でる人でにぎわいます。そして桜の花が風で舞い、花筏となって疏水を流れゆく様は華やかでありながらどこか寂しさを漂わせ、やがて花筏が過ぎ去ると青葉の季節が訪れ、あたりは萌黄色に染まります。

   本圀寺3  本圀寺2
     桜に覆われた遊歩道                  新緑の遊歩道

    本圀寺1

 日蓮宗の大本山 本圀寺 は春は桜、初夏の新緑、秋の紅葉と四季折々の散策を楽しめる疏水沿いにあります。寺伝によれば、建長五年(1253)に日蓮が鎌倉の松葉ケ谷に設けた草庵法華堂にはじまり、そののち布教の根本道場として 大光山本国寺 と称し、光厳天皇の勅命をえて京都に移った後は、足利尊氏や豊臣秀吉の姉日秀尼、加藤清正らの援助を受け、貴族の子弟が代々の住持となりおおいに隆盛、また江戸時代には徳川光圀の庇護を受けたといいます。山科に移ってきたのは昭和四十六年(1972)で、それまでは西本願寺の北側に広大な寺領を持ち、本堂以外に祖師堂・鬼子母神など日蓮宗独特の建物を備えた大寺院だったそうです。

 天智天皇山科陵の裏手の疏水に架かる正嫡橋を渡ると目の前に鮮やかな赤門があらわれます。

   本圀寺4  本圀寺5
     正嫡橋                          赤門

 この門は加藤清正が文禄元年(1592)に寄進した山門で、清正の出世開運にちなみ開運門(通称・赤門 平成八年に修復復元)と名づけられています。門をくぐると、左手の小高いところに清正が建立したと伝わる経堂が建っています。この中にある経蔵は足利義政が一切経とともに寄進したもので、内部の壁面には彩色壁画や彩色装飾が施されています。

   本圀寺10  本圀寺6
     経蔵                            広々とした境内

 広々とした境内には仁王門、本堂、本師堂(釈迦堂)、大客殿、大梵鐘などが立ち並んでいますが、それらの建物には金色の装飾が目立ち、『金ピカ寺』の別名もあるようです。

   本圀寺7  本圀寺8
     本堂の前に建つ仁王門                本堂

 大梵鐘は豊臣秀吉の姉にして関白秀次の母である日秀尼の寄進によるもので、案内によれば、この梵鐘には秀吉の両親の法号や木下家一族の法号、有力な末寺の名が刻まれており当時の歴史を示す貴重なもの。また、『大光山本圀寺』の鐘銘があり、『黄門さま』で知られる水戸光圀の名前は大光山の『光』と本圀寺の『圀』を本圀寺から水戸徳川家に贈りそれ以来『光圀』と名乗ったそうで、光圀はこれに恩義を感じこの寺に数々の貢献をしたといいます。この鐘楼を取り囲むように桜が植えれれていて、満開の時に訪れたときはその美しさに感動でした。

   本圀寺9  本圀寺11
     日秀尼寄進の梵鐘                   清正宮

 本堂の裏手の石段を登ったところにたつ金色の清正宮鳥居の奥には清正公廟があり、中には加藤清正の両親の遺骨とともに自身の毛髪などを石室に納めてあります。

 金ピカの装飾が初夏の日差しを受け、眩いばかりに輝いていた本圀寺はのどかな疏水の傍にひっそりと佇む歴史あるお寺です。

双林院 ~ 山科聖天の名で親しまれる寺 ~

 毘沙門堂の参道に架かる極楽橋を左に、谷川に沿って歩いていくと鳥居が見えてきます。 その鳥居は毘沙門堂の子院の双林院 の入り口で歓喜天を祀っていることから 山科聖天 の名で親しまれています。双林院の創建は毘沙門堂が再興された漢文5年(1665)で、由緒によれば、本尊は滋賀県の湖東三山のひとつ西明寺から迎えた阿弥陀如来であったが、明治元年(1866)に聖天堂を建て、門主の公遵親王の念持仏『大聖歓喜天』を祭り本尊にしたといいます。この「『大聖歓喜天』は仏教の守護神で、頭は象、身体は人間の姿をしたガーネーシャに相当し、智恵と財福の神といわれ、昔から夫婦和合、商売繁盛、子授かりに霊験あらたかとして信仰されています。

 鳥居から石段を上がると山門があり、大聖歓喜天が祀られているお堂は右手に建っています。

   山科聖天4  山科聖天1

 正面には不動堂が建っていますが、このお堂には比叡山千日回峰行者であった二十四代住職が比叡山無動寺より勧請した不動明王が安置されているそうです。

   山科聖天2  山科聖天3

 お堂の裏手には『お滝不動』がありますが、不動像は横向きに安置されていて正面から見ることはできませんでした。
それでも木々に覆われた中から小さく流れ落ちる滝は初夏の光が射しこみ、あたりが飛沫に濡れる光景は山寺の雰囲気が漂っていました。
   

毘沙門堂 ~ 桜と紅葉の名所で知られる山科の古刹 ~

 奈良と大津を結ぶ交通の要所として開けた山科は古い歴史のある街。琵琶湖の水を京都の街に引くために造られた琵琶湖疏水沿いに設けられた遊歩道は四季折々の風情を楽しめる身近な散策路になっています。 その山科に桜と紅葉の名所として知られる 天台宗門跡寺院 毘沙門堂 はあります。寺伝によれば、大宝3年(703)に文武天皇の勅願により行基が開基、当初は出雲路(現在の京都市上京区)にあったことから護法山出雲寺といわれていました。その後たび重なる苦難の道を経て徳川時代に天海僧正により復興の途につき、寛文5年(1665)現在の地に再建され、後西天皇の皇子公弁法親王が入寺され 毘沙門堂門跡 と称したといいます。

 JR山科駅から住宅街を山手に向って歩いていくとやがて琵琶湖疏水があり、さらに進むと左手に浅野家ゆかりの寺 瑞光院 があります。赤穂藩主・浅野家の祈願寺で、境内には浅野内匠頭の墓標と大石内蔵助の供養塔が立ち、主君のそばには赤穂浪士四十七士の髻を納めた遺髪塔が立っています。

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                          浅野家ゆかりの瑞光院

 瑞光院を過ぎるとその先に極楽橋という小さな橋が架かり、橋を渡れば毘沙門堂の参道になります。新緑の眩しい参道は楓や桧、桜が高さを競うように頭上を覆い、仁王門までのやや急な石段には山寺の趣が漂っています。

    毘沙門堂1
      青葉が目に染みる参道

   毘沙門堂2  毘沙門堂3
     極楽橋                          仁王門

 阿吽の二天像が安置されている仁王門は本堂の表門となり、門をくぐると目の前に朱塗りの美しい唐門がありその奥に本堂が建っています。

   毘沙門堂5  毘沙門堂6
     鮮やかなキリシマツツジと唐門            本堂

 華やかな装飾の唐門や本堂は江戸初期の建築で、本殿に安置されている伝教大師最澄の自作の本尊(秘仏)の毘沙門天は延暦寺根本中堂の本尊薬師如来の余材をもって刻まれたと伝えられています。毘沙門堂の名はこの毘沙門天からつけられ、京の七福神のひとつになっています。

   毘沙門堂4  毘沙門堂7
     境内に咲く藤の花                    高台にある祀られている弁財天

 本堂の回廊から板縁でつながる霊殿には阿弥陀如来を中心に歴代天皇や徳川将軍の位牌が置かれ、天井には狩野主信が描いたという四方睨みの龍が霊殿を守るかのように睨みをきかせています。また文化財特別公開が開催されていたこの日は霊殿の障壁画も見ることができました。

 つづいて本堂から廊下でつながる宸殿は公弁法親王が御所内の後西天皇の旧殿を移築したものといい、上段の間には玉坐が設えられ、雅な門跡寺院の暮らしが偲ばれます。各間の襖絵は狩野益信の筆で描かれ、見る角度で描かれた人物、風景が動的になることが特徴の『逆遠近法』という手法が用いられていて、見ていると不思議な気分になってきます。玄関脇の円山応挙が描いた『鯉の図』にも同様な手法が用いられており、あたかも鯉がいきいきと泳いで追いかけてくるような気がして思わず振り返ってしまいました。その宸殿の前には樹齢百数十年といわれる枝垂れ桜があり、桜の頃は壮観な姿をみせてくれます。

   毘沙門堂8  毘沙門堂9
     勅使門                          宸殿
    毘沙門堂10
      『毘沙門しだれ』とよばれる樹齢百数十年の枝垂れ桜

 霊殿、宸殿の北に広がる『晩翠園』と名づけられた庭園は江戸初期の回遊式庭園で、山の緑とあいまって明るい光が射しこむ庭園は鳥のさえずり、そよぐ風の音も心地よくいつまでもそこに立ち止まっていたいような気持になってきます。

    毘沙門堂11
      『心字』の裏文字を形取った池と刈込や石組みが配された晩翠園

 山科盆地を見下ろす山腹に位置する毘沙門堂は商売繁盛、家内安全のご利益や、春の桜、秋の紅葉の名所と知られていますが、四季折々の風情も堪能できる古刹です。機会があれば一度訪れてみてください。

高野山紀行 4 ~ 金剛三昧院(こんごうさんまいいん) ~

 聖地高野山には旅館やホテルといった宿泊施設がないため、参詣や観光で訪れ、宿泊をする際は宿坊と呼ばれる仏教寺院に泊まることになります。その宿坊寺院でもある 金剛三昧院 は北条政子の発願により建暦元年(1211)源頼朝菩提のため 禅定院 として創建され、承久元年(1219)源実朝菩提のため改築して 金剛三昧院 改称され、貞応2年(1223)北条政子が禅定如実として入道し、頼朝と実朝の菩提を弔うために多宝塔を建立したといいます。

 宿坊が並ぶメイン通りから少し中に入ったところにある金剛三昧院は静寂に包まれ、時折聞こえる鳥の声が心地よく響きます。

   金剛三昧院1  金剛三昧院2

 表門をくぐると正面の少し小高くなった所に本堂の建物があり、源頼朝の等身大の念持仏の愛染明王が置かれ、その奥には源頼朝と北条政子、足利尊氏の位牌の安置された位牌堂があります。

    金剛三昧院5
      愛染明王が安置されている本堂  

    金剛三昧院3 
      本坊    

 本坊前に広がる石が敷き詰められた広々とした庭には日が差し込み、本堂から経蔵にかけて広がる大しゃくなげの樹が出番を待つかのように蕾を膨らませています。

    金剛三昧院4
      樹齢450年といわれる天然記念物の大しゃくなげの樹

 境内に建つ校倉造りの経蔵は鎌倉時代初期の建立で、中には『高野版』といわれる経本の版木が保存されているそうです。大しゃくなげの樹にそって階段を上がると、高野山の守り神である丹生・高野・気比・丹生御息を祀る四所明神社、金剛三昧院の鎮守である天狗様を祀る毘張尊師社が建っています。

   金剛三昧院6  金剛三昧院7
     重要文化財の経蔵                   重要文化財の四所明神社

 そして金剛三昧院で最も知られている建物が 多宝塔 です。高野山に現存する最も古い建立物で、多宝塔としては日本で二番目に古く国宝に指定されています。晴れ上がったこの日は入口の戸が開かれ、中に安置されている運慶作の五智如来像をまじかでは拝むことができました。

   金剛三昧院9  金剛三昧院10

 その塔を見下ろすようにあるのが『六本杉』。樹齢500年といわれる杉の巨木は健康、愛情、学業、金運、仕事、賭事と一本ずつ異なる力が備えられているとのこと、願いと木の力が合えば成就するといわれているようです。六つの内の一本に願いを込めてきましたが、果たして成就は叶うのでしょうか・・・

    金剛三昧院8

 何度も参詣している高野山ですが、1200年の節目に参詣できたことに改めてお大師さんとの縁が深まったような気が・・・そして、新緑の眩しい山々に見送られながら高野山を後にしました。

高野山紀行 3 ~奥之院 ~

 弘法大師御廟のある 奥之院 は大師信仰の聖地として多くの人が訪れています。参道入り口となる一の橋から御廟までの参道の両側には杉や桧が高くそびえ、その下に20万基を超えるといわれる墓や供養塔が立ち並んでいます。

   奥の院2  奥の院3
     奥の院口                         一の橋

   奥の院11  奥の院4
     数百年を経た老杉                   奥の院に続く参道

   奥の院5  奥の院6

   奥の院7  奥の院8

 これら多くの供養塔や墓は、弘法大師の足下に眠れば極楽往生できるという信仰によるものといわれ、歴史に登場する多くの人々の名を見ることができます。また供養塔や墓にまじって松尾芭蕉やなどの句碑もたっています。線香の香りが漂う木漏れ日の射し込む参道は、荘厳な雰囲気に包まれ身も心も引きしまてきます。

 御廟橋を渡れば弘法大師御廟の聖域。燈籠堂の奥にある御廟の前には線香の煙がたなびき、手を合わせを人々が連なっていました。

    奥の院9

    奥の院10

 入定信仰を持つ弘法大師は今も変わらないお姿でおられると信じられており、高野山に参詣する人は必ず訪れる奥之院の御廟。御廟に参詣した後は極楽浄土に近づいて行けるような・・・そんな気持ちになった奥の院を後にしました。
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