大報恩寺(千本釈迦堂) ~ 「おかめ」にまつわる悲話が伝わる京洛最古の仏堂 ~

北野天満宮から花街の上七軒を抜け、七本松通を少し北に行くと 大報恩寺 という真言宗の寺があります。通称 千本釈迦堂 と呼ばれる大報恩寺は2月の「 おかめ福節分 」、年末の「 大根焚き 」で知られ、市井の人々にとっては馴染みあるお寺です。

 寺伝によれば、承久3年(1221)に藤原秀衡の孫である義空上人が小堂を建立して仏像を祀ったことが大報恩寺の始まりで、本堂は安貞元年(1227)に完成し、応仁・天明の乱にも奇跡的に災火を免れ、京洛最古の建造物として国宝に指定されています。

 千本釈迦堂と刻まれた石柱のある五辻通から直線に伸びた表参道を行くと、次第に近づいてくる山門は小ぶりでその奥には入母屋造りの本堂を桜と松の木の枝越しに垣間見ることができます。

  千本釈迦堂1  千本釈迦堂2

   千本釈迦堂3
      本堂の前で枝を広げる阿亀桜

   千本釈迦堂4

 この本堂の完成についてはふたつの説話が残されています。
 ひとつは本堂造営の途上、大光柱がみつからず工事は中断していたところ、摂津の富有の材木商の夢枕に老僧が現れ、「洛中に一大精舎が建立されんとしているが、汝のもつ巨材のなかに大光柱とすべきものがあるので是非提供してほしい」との申し出に材木商が応じ、老僧はそれに『大報恩寺』の刻印を打って帰ったのです。夢から醒めた材木商が材木を確かめると確かにその刻印があったので、早速大報恩寺を訪れると、夢の中の僧は仮堂に安置されていた迦葉尊者であり、材木商は大いに感激し材木を寄進したという説話。
 もうひとつの説話が大工の棟梁の妻『 おかめ塚 』にまつわるもので、本堂を造営する際に大工の棟梁であった飛騨匠守高次が、四天柱のうちの一本の柱の寸法を誤って切ってしまい、苦悩する高次を見た妻のおかめが、『斗組(ますぐみ)を用いたらどうか』と提言。その提言を受け入れた高次は他の三本の柱も短く切り、そこに見事な組物で各柱の先端を繋ぎ長さを補って巧みな造形を作り上げ本堂は完成します。しかしおかめは女の提言で大任を果たしたことが世間に知れてはとの思いから上棟式を待たずに自害してしまいます。妻の心を知った上棟式で亡き妻おかめの名に因んだ福面を御幣の先端に飾り冥福を祈ったといいます。その本堂の前の東の塀際にはおかめの墓といわれる宝篋印塔と斗組をもったおかめの像が祀られています。

  千本釈迦堂5  千本釈迦堂6
     釣蔀越しに見る境内                  宝篋印塔とおかめの像

 檜皮葺でゆるやかに広がった屋根の本堂は、中央の開けられた釣蔀の間から明るい光の射し込む外陣は、威圧感は全く感じられない温かみのある空間が広がっています。本堂奥の一角ではおかめの像と全国各地から奉納されたおかめの置物が所狭しと並べられ心を和ませてくれます。

 本堂の裏手にある霊宝館で行快作・木造釈迦如来像、快慶作・十大弟子立像、定朝作・六観音像をはじめ多くの国宝・重要文化財の仏像彫刻を拝むことができるのもこの大報恩寺の魅力です。

  千本釈迦堂8  千本釈迦堂7
     貴重な宝物が納められた霊宝館           

 境内の山門近くには明治の廃仏毀釈により北野天満宮の門前から移築した足利義満建立の北野社の経王堂願成就寺、山名氏の持念仏の不動明王を祀った不動明王堂、稲荷社などが建っています。 また本堂に近い塀の脇では布袋尊が愛嬌ある笑顔を見せています。

  千本釈迦堂9  千本釈迦堂11
     北野経王堂願成就寺                 稲荷社

  千本釈迦堂10  千本釈迦堂12
     不動明王堂                       布袋尊

 新西国三十三カ所、「ぼけ封じ」として知られる近畿十樂観音霊場めぐり、京都十三佛巡りの札所でもある大報恩寺。桜の名所としても知られる境内に阿亀桜、普賢象さくら、御衣黄桜が花開くころにぜひ訪ねてみてください。
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櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ) ~ 浮気封じ、復縁にご利益のある神社 ~

 恋愛成就にご利益のある神社仏閣はよく聞きますが、失った愛を取り戻すのにご利益ある神社があると聞き訪ねてみました。
 京都市上京区にある 櫟谷七野神社 がその神社で、その昔宇田天皇の皇后が天皇の寵愛の復活を願い、白砂を三笠山の形に積んで祈願したところ、天皇の寵愛を取り戻したことから、本殿前に白砂を三笠山の形に積んで祈願すると復縁が成就されるという信仰が広まり、現在でも「浮気封じ」や「愛情の復活」の祈願に訪れる人が多いようです。

 櫟谷七野神社のある辺りは平安時代から鎌倉時代にかけて、賀茂社に奉仕する斎王親王が身を清めて住まわれた斎院のあった場所で、社伝によれば神社は平安時代文徳天皇の皇后が子宝祈願のため春日大神を奉祀したことが起源といわれ、別名「春日神社」とも呼ばれているようです。

 住宅地の中にある神社は鳥居が奥にたっているためかなりわかりづらく、かなり探してしまいました。

   櫟谷七野神社1

 鳥居の横には御神木の大きなクロガネモチの木が天高くそびえています。

  櫟谷七野神社2  櫟谷七野神社4
     愛の成就祈願のパワースポット

 本殿は石段を上がった上に建っていて、その前は一面の白砂で覆われ、棚の上には白砂が山の形に積まれていましたが、これは「高砂山祈願」というのだそうです。

   櫟谷七野神社5  

 本殿の脇には稲荷社()の社と賀茂斎院跡の石碑がたてられています。

  櫟谷七野神社7  櫟谷七野神社3

 愛の復活を祈願した白砂ですが、この積み上げられた砂を持帰り、別れたい相手のポケットなどに入れておくと、離婚・離縁ができるとの信仰もあるのだとか。信仰は心のよりどころ、神様もそれぞれの願いを叶えてくださるのでしょうが・・・

水火天満宮 ~ 菅原道真雷神説の逸話を秘める不思議な石伝説 ~

 日本各地には沢山の伝説といわれるものが多く存在します。京都にも多くの伝説がありますが、その多くは民話的なものが少なく、具体性を帯びた歴史的事実ともいえるようなものが多く伝えられています。
そのひとつに 道真の登天石 という伝説があります。順風満帆に出世街道を驀進していた菅原道真が藤原時平の讒言により大宰府に左遷され、非業の死を遂げると、都では天変が相次ぎ、さらに雷火が重なると人々はそれが『道真公の怨霊がなせる業』と信じ込み、ついには当時の帝醍醐天皇までもが不安を抱くようになります。そこで天皇は道真を師と仰ぐ延暦寺の法正坊尊意僧正に祈祷を依頼されました。勅命を受けた尊意僧正は雷が轟く大雨の中を宮中に向っている途中に、突然水位を増した鴨川の水が町に流れ込む光景を目にします。しかし僧正は少しも騒がず、手にしていた数珠をひと揉みすると水が引き、ふたつに分かれた水流の間にひとつの石が現れ、その石の上には道真公が立っていましたが、その姿はすぐに雲の中に消え去り、荒れ狂っていた雷雨も嘘のように止んでしまいました。そして僧正は後に残った石を持帰り供養し、登天石 と名づけます。。その後、道真公は右大臣に復し、さらに火雷天神の神号が下賜され神として祀れるようになったといわれています。

 上京区堀川鞍馬口下ルにある 水火天満宮 は延長元年(923)に醍醐天皇の勅願により水難火難除の神社として菅原道真公の神霊を勧請して建立され、境内にはその 登天石 が祀られています。

   水火天満宮1

   水火天満宮4

 堀川通に面した神社の鳥居には 水火天満宮 と書かれた石標が立ち、境内に入るとすぐ右側に龍水の池、出世石、登天石が並んでいます。

  水火天満宮3  水火天満宮5
     龍王の池                         出世石

 さらに参道を進むと左手に拝殿、その奥に本殿があります。

  水火天満宮6  水火天満宮7
     拝殿                            本殿

 桜の頃にここを訪れるとしだれ桜が拝殿を覆うように咲き乱れて華やかな風景が広がっています。
 
 境内には他に六王稲荷大明神、秋葉大神(火難除け)、白太夫、弁財天、玉子神石が祀られています。

  水火天満宮7  水火天満宮2
     六王稲荷社                        秋葉社と白太夫社

 堀川通を歩いていても通り過ぎてしまいそうなしいさな境内と社ですが、京都にある伝説のひとつです。機会があれば一度訪れてみてください。

御霊神社(上御霊神社) ~ 応仁の乱発端の地となった心しずめの神社 ~ 

 京都御所の北、鞍馬口は鞍馬街道の京への出入り口とされていました。この鞍馬口の地に疫病除けのご利益があるといわれる 御霊神社( 上御霊神社 ) があります。神社の創祀は平安遷都の時に、桓武天皇が弟の早良親王(崇道天皇)と井上内親王の神霊を祀ったとも、またかつてこの地に勢力をもった出雲氏の氏寺である上出雲寺の鎮守社とも伝えられたいます。

 地下鉄鞍馬口から烏丸通を少し南に行くと、東側の大きな木の下に石の鳥居が見えています。

   御霊神社1
      西の鳥居

 鳥居の脇には御霊神社の石碑と並んで「 応仁の乱勃発地 」の石碑が立っています。ここの辺りはかつて御霊の杜が広がっていて、応仁元年(1467)応仁の乱は畠山政長がこの杜に陣を取り、畠山義就と家督を争ったことに端を発しています。

   御霊神社2

 境内の四脚門を入ると敷石の参道の脇に松尾芭蕉の 半日や神を友にや年忘れ の句碑がたっています。資料によるとこの句は元禄3年(1690)の師走、門人たちとここを訪れて「年忘歌仙」を開いたその時の句とのこと。この御霊神社には早良親王、井上内親王、他戸親王、藤原吉子、文屋宮田麻呂、橘逸勢、吉備真備、火雷神(菅原道真)、など非業の死を遂げて祟り神となった人たちが祀られていることから、友とは八所御霊といわれる怨霊神のこと読んでいるのだろうか。それを知るとあまりのんびりと句会をしているようには思えてこないのですが・・・
   
  御霊神社3  御霊神社4
     西楼門                          芭蕉の句碑

 拝殿、本殿、絵馬所などが建ち並ぶ境内は人影のなくひっそり。

  御霊神社5  御霊神社6
      絵馬所                         拝殿

   御霊神社7
       八所護霊が祀られた本殿

 この御霊神社の例祭である御霊祭には剣鉾や牛車、神輿が周辺を巡幸するそうですが、剣鋒は御霊会のシンボルで疫神を祓うとされ、祇園祭などの山鉾の原型ともいわれています。

 また厄除、学業成就にご利益の御霊神社は 京洛八社集印めぐり の札所にもなっています。

2015 京の冬の旅 3 本法寺 ~ 本阿弥光悦ゆかりの寺 ~

 京都市上京区小川通寺之内にある 本法寺 は日親を開基として本阿弥清信(本阿弥光悦の曽祖父)が創建した日蓮宗の寺院です。資料によれば日親は上総に生まれ、中山法華経寺に入門後、京都を中心に布教活動を行い「立正治国論」を著し、将軍足利義教に呈上しようとしたため捕えられ投獄されます。その獄中で知り合った本阿弥清信は日親に深く帰依し、出獄後、日親のために堂宇を建て本阿弥家の菩提寺とします。その後、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備のにより現在の地に移転する際には、本阿弥家が私財を投じて伽藍の整備に尽力したといいます。

 本法寺には堀川通からも入ることができますが、堀川通から一本東に入った小川通から入った方がより味わい深い風景を目にすることができます。茶道の表千家の不審庵、裏千家の今日庵の前を通り、左手にある整然と敷石が並べられた石橋を渡ると金剛力士像が安置された本法寺の仁王門が建っています。

  本法寺1  本法寺2
    小川通                           仁王門

 仁王門をくぐると石畳の参道が伸び、右手には摩利支天堂、その先に多宝塔、その横に開山堂が建っています。

  本法寺15  本法寺3  
    参道                             摩利支天堂

  本法寺4  本法寺7
    多宝塔                           開山堂

 多宝塔の向かいには経蔵と鐘楼、本堂があり、本阿弥光悦筆の扁額が掲げられた本堂の前には光悦翁お手植えの松と長谷川等伯の像が立ち、その横には出番を待つ桜の木が・・・本法寺は隠れた桜の名所でもあります。

   本法寺5
      本阿弥光悦お手植え松と本堂

  本法寺6  本法寺8
     長谷川等伯像                      経蔵と鐘楼

 本堂横にある唐門の前には日親が傘をたてて辻説法を行ったという「説法石」が置かれており、布教活動をする日親の姿が偲ばれます。

  本法寺9  本法寺10
     説法石が置かれた唐門                庫裏

 この本法寺の書院には光悦が作庭したと伝わる枯山水庭園 「 三巴の庭 」があります。これは三つの築山を巴形に配したことから名づけられたといいます。

  本法寺11  本法寺12

 巴の庭の中程には半円を二つ組み合わせた円形石と、切石で十角形に縁どられた蓮池が配置されていますが、これは石で「日」、蓮で「蓮」を表現したと伝えられています。

    本法寺13

 涅槃会館の入口には「 十の庭(つなしのにわ) 」と呼ばれる枯山水庭園がありますが、この庭園にある石は全部で9個でもう一つの石は自分の心な中の石を合わせて 『十の庭』となるのだそうです。 

  honn宝寺16  本法寺14
     氷柱の下る手水鉢                   十の庭

 長谷川等伯ともゆかりの深いことで知られている本法寺には京都三大涅槃図のひとつ、等伯筆の「佛涅槃図」があります。長谷川等伯は熱心な日蓮宗の信者で、能登七尾から上洛して本法寺塔頭教行院に寄宿しており、奉納された涅槃図には等伯の近親者の名や戒名などが記されていることから供養を目的に制作にとりかかたのではないかといわれています。今回の特別公開では本法寺にゆかりある光悦、等伯、光琳など琳派の芸術家たちの作品が展示されています。

 琳派の寺宝や三巴の珍しい庭園に感動した本法寺、春爛漫の頃桜に堂宇が埋もれた風景を是非見たい思いにかられながら後にしました。
 

2015 京の冬の旅 2  頂妙寺 ~ 俵屋宗達ゆかりの寺 ~

 鴨川の東沿いを南北に通る川端通と東大路通の両幹線道路を東西に結ぶ細い道に 仁王門通 と呼ばれる通りがあります。この通りに仁王門通の由来となった仁王門のある寺 頂妙寺 があります。

    頂妙寺1
       頂妙寺の南側にある仁王門通

 資料によれば日蓮宗本山 頂妙寺 は下総中山法華教寺の妙国院日祝上人が法華教布教のため上洛し、文明5年(1473)土佐の守護細川勝益の帰依によって洛中に開創され、その伽藍は四町四方(約12000坪)という広大なものであったといわれています。その後、足利将軍家、公家方をはじめ京都町衆の外護を受け大いに発展しましたが、天文法難により堂宇を焼失して堺に移り、天文15年(1546)に帰洛復興。しかし、その後も織田信長の「安土宗論(日蓮宗と浄土宗の宗教論争)」に破れたり火災による堂宇などの波乱万丈の歴史が繰り返されたとのこと。

 仁王門通に面した山門を入ると運慶・快慶作と伝わる持国天、毘沙門天が安置された仁王門がそびえ、門の中天には「聞法山」の山号と宗門布教を約束した秀吉公台命の扁額が掲げられています。

            頂妙寺2  
               山門   

    頂妙寺3
       仁王門

 通常は金網で覆われ薄暗くあまり見ることができない仁王像も特別公開によりライトで照らされ、力をみなぎらせた堂々たる姿をまじかで見ることができます。

 仁王門の先には宗祖日蓮上人像が立ち、広々とした境内は正面に大本堂、右側に祖師堂、大黒天堂、御真骨堂などが、左側に妙見堂、鬼子母神堂、鐘楼が建っています。

  頂妙寺4  頂妙寺5
     宗祖日蓮上人像                    大本堂
  
                  
  頂妙寺6  頂妙寺7
     祖師堂                          大黒天堂

            頂妙寺8  
               鬼子母神堂

 大本堂内陣の須弥壇の正面には日蓮上人像が祀られ、正面の上段には一塔両尊四士像、左右に文殊・普賢菩薩、四方に四天王が配置されています。

 本堂の背後には庫裏、客殿、書院が並び、客殿では寺宝である美術品とともに、俵屋宗達の「牛図」が展示されています。この頂妙寺の墓地の一角には「風神雷神図」で知られる俵屋宗達のものと伝わる墓があります。江戸初期の絵師である俵屋宗達は、生没年ははっきりとはわからないようですが、京都で扇絵を製作していて琳派の祖・本阿弥光悦や烏丸光広らとも交流があったといわれています。今回特別展示されている「牛図」は宗達の歿後頂妙寺に寄進されたもので、「墨のたらしこみ」という技法で描かれているそうです。下地が乾かないうちに次の色を落として牛の逞しい筋肉を表現し、つなぎを解かれた牛によって生き物の自由を讃え、江戸幕府による縛りに対抗したとのこと。それを知って見ると牛の動きにより一層の逞しさを感じました

 
  頂妙寺9  頂妙寺10
     客殿                            俵屋宗達の墓


 ~ 参考データ 

 一塔両尊  
   日蓮が法華経の仏の世界を文字で表わした十界曼荼羅を元にして、その主要な部分を仏像として造形化したもの     で、中央に南無妙法蓮華経と書かれた題目宝塔、その左右に釈迦如来・多宝如来の二仏配置したもの

 四士 
   上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立菩薩の四菩薩を配置したもの
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