村雲御所瑞龍寺 ~ 絶景の山頂に立つ悲運の武将の菩提寺 ~

 豊臣秀次が築城した八幡山城は水郷地帯が広がるのどかな風景の中にそびえる八幡山の山頂にありました。しかし、城は秀吉により秀次が自害させられるとまもなく廃城になり、現在は本丸跡に 村雲御所瑞龍寺 が立っています。瑞龍寺は秀次の生母・日秀尼公(豊臣秀吉の姉)が秀次の菩提を弔うために、京都村雲(現在の二尊院近く)に創建した日蓮宗の寺で、秀次が八幡山城を築城し繁栄させたことから昭和36年(1961)にここに移築されました。そして瑞龍寺は日蓮宗では唯一の門跡寺院といいます。

 八幡山ロープウェーを降りて初秋の風が流れる遊歩道を行くと、やがて瑞龍寺の山門が・・・

            瑞龍寺7

     日牟礼八幡宮10

 門の左右や内側にもかつて城であったことを思わせる石垣が残り、なぜかむなしさが・・・

 唐門のような屋根の本堂には京都から移された釈迦三尊像や観音菩薩像が安置され、中には名庭といわれる庭園が作られています。

  日牟礼八幡宮9   日牟礼八幡宮11

 北・中・西の丸へは遊歩道が通じていて城跡を散策することができ、そこには絶景の大パノラマが広がっています。

    日牟礼八幡宮12
                           西の丸跡からの琵琶湖の眺望    

    日牟礼八幡宮13
                          北側に広がる西の湖から安土方面

 紅葉の季節には、多くの人がこの大パノラマを求めてここに来るというが、確かのこの景色は見逃せない絶景でした     
スポンサーサイト

日牟禮八幡宮 ~ 近江商人の信仰を集める古社 ~

 滋賀県近江八幡市は豊臣秀吉の甥・秀次が八幡山城を築き、織田信長亡き後の安土城下の民を移して、自由市の楽市楽座を施行して城下町を開いたのが始まりとなります。近江八幡を代表する風景で知られる 八幡堀 は当時の交通の幹線であった琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡に寄港させるために設けられた運河で、商人らの熱気があふれる近江八幡の経済や流通の中心的な存在でした。

    日牟礼八幡宮1
              白壁の土蔵が堀の両側に立ち並び往時の賑わいが偲ばれる八幡堀

 湖国の春を告げる左義長まつり で知られる 日牟禮八幡宮 は八幡堀の内側に広大な神域を持ち、近江商人の絶大な信仰を集める神社です。伝承によれば、第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創といい、その後藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改めたと伝えられています。正暦2年(一条天皇の勅願により八幡山上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀り、寛弘2年(1005)遥拜社を麓に建て下の社と名づけました。天正18年(1580)に豊臣秀次が八幡山城を築城のため上の八幡宮を下の社に合祀して現在の一社になったとのこと。

  日牟礼八幡宮2   日牟礼八幡宮3
    八幡堀にかかる白雲橋と日牟禮八幡宮の鳥居                古木の生い茂る参道

 どっしりと構えた楼門を入ると八幡山の麓の境内にはエノキやムク、杉の古木に囲まれて拝殿、本殿、能舞台などの社殿や幾つかの境内社殿が立ち並んでいます。

           日牟礼八幡宮4 楼門

    日牟礼八幡宮5
                                拝殿

  日牟礼八幡宮6   日牟礼八幡宮7
                  本殿                                能舞台

 千年以上の歴史を誇る神社には、海外で活躍した近江商人・西村太郎右衛門の奉納した『安南渡海船額』や鎌倉時代の木像神座像をはじめとする重要文化財も多く保管され、八幡の産土神として崇拝を集め、近江商人の信仰の深さを感じます。また、毎年三月に行われる左義長祭、四月に行われる八幡祭の二大火祭はこの神社の祭礼で、国の選択無形民俗文化財に選定されています。
 
 江戸時代中期から明治時代に建てられた商家が甍を連ね、白壁の土蔵が建ち並ぶ近江八幡は伝統的建造物群保存地区の指定を受けた情緒あふれる町。八幡堀を歩いていると撮影の風景に出合うことも・・・忘れかけている日本の原風景が今も息づいている町かもしれません。
 

崇道神社 ~ 森閑とした神秘的な神社 ~

 京都市左京区上高野に 崇道神社 は 早良親王 ( 崇道天皇 )のみを祭神とした唯一の神社です。光仁天皇と高野新笠の間に生まれた早良親王は、兄の桓武天皇が即位されると皇太子となりました。しかし、長岡京遷都の翌年(785年)、長岡京造営の中心的存在であった藤原種継暗殺事件が起き、その首謀者として早良親王が逮捕され、乙訓寺に幽閉されます。無罪を訴え、絶食された親王は配流されることになった淡路国に行く途中で憤死されました。そして早良親王の死後、都に疫病が蔓延し、それらは早良親王の祟りよるものとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われ、朝廷より崇道天皇と追称されて、奈良南部に八嶋陵が改葬されました。しかし、皇位継承をされたことがないため歴代天皇には数えられてはいません。神社の創建は貞観年間といわれ、都の鬼門にあたるこの地に、北陸への要衡を抑えるため御霊社として親王を祀られたといわれています。

 若狭街道に面した鳥居の奥は空を覆い隠すように松や杉が生い茂り、昼なお薄暗い中を参道が伸びています。

    崇道神社1
                          神秘的な雰囲気を感じさせる参道

 ゆるやかな勾配のある参道を歩くと、どこからともなく肌をかすめるように風が流れ、霊気が漂ってくる気配を感じてしまうような・・・そして、苔生した石垣がそれをあおるかのように少しつづ高さを増していきます。

    崇道神社2
                        苔むした石垣と木漏れ日の参道

 参道の中程の左手には農業守護神を祀る伊多太神社の本殿が建っています。

           崇道神社3 伊多太神社

 やがて石段が見え、山を抉ったような狭いところにひっそりと本殿や境内社が並んでいます。

    崇道神社4

               本殿と社務所  崇道神社5

  崇道神社6   崇道神社7
                               狭い社域に建つ境内社

           崇道神社9 打たせ滝

 この崇道神社の東側には小野神社の境内が広がっています。小野神社は小野妹子とその子小野毛人を祭神とする神社で小野一族が祀られ、神社奥の山から発見された小野毛人の石棺から出土した鋳銅製の墓誌は国宝に指定されています。

  崇道神社8   崇道神社10
            小野毛人の石柱                           小野神社

 入口を高い木々に覆われた神社は人影もなくひっそりとしていて歩く参道は神秘的で奥深く、霊を慰めるために創建された神社はどこまでも限りなく森閑としていました。

蓮華寺 ~ 八瀬の里で感じる至福のひと時 ~

 白川通を北に走るとやがて高野川に架かる花園橋に、その橋から高野川沿いに進んで行くと大原を抜けて若狭の国に通じる道 若狭路 は、若狭から京に海産物(特に鯖)を運搬したことから 鯖街道 とも呼ばれています。その鯖街道が通る八瀬の地は壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)がこの地で敵の流れ矢で背に矢傷を負ったのが地名の始まりと伝わる皇室とのゆかりの深い静かな山里。その渓谷沿いの里に、閑静で趣き深く、心休まるお寺 蓮華寺 があります。蓮華寺は、寛文2年(1662)に加賀前田家の老臣今枝近義が祖父の菩提を弔うため、七条塩小路(今の京都駅附近)にあった古寺をこの地に移して再興した寺で、その再興にあたっては、石川丈山、狩野探幽、木下樹庵、隠元禅師などの多くの著名文化人が協力したといいます。

 街道に面した侘びのある山門からは、庫裏まで続く石畳の参道が伸び、程よい高さの木々の間からは木漏れ日が降り注ぎ、趣き深い風情が漂ってきます。

   蓮華寺1  蓮華寺2
           入口にたつ寺石標                           侘びある山門  

     蓮華寺3
                             静寂に包まれた境内

  蓮華寺4   蓮華寺5
               参道を覆う木立                        木漏れ日の射し込む境内                           
 山門から閑静な境内に入ると、創建当時のままという鐘楼堂と井戸屋形が建っています。

  蓮華寺6   蓮華寺8
                 鐘楼堂                                井戸屋形

 そして参道の左手には石仏が沢山並んでいますが、これらは京都市電河原町線の敷設工事の折に発掘されたものとのこと。

    蓮華寺7
                          発掘された石仏が並ぶ境内

 書院と一体化した庫裏を入ると、阿弥陀三尊が安置されている部屋の先に名園といわれる池泉観賞式の庭園が見えてきます。

           蓮華寺10 書院

    蓮華寺11
                           書院から一望する庭園

 高野川の清流を引いた庭園は石川丈山の作庭ともいわれていますが定かではないようです。池の中には鶴島と亀島の2島が配され、背景の木々からは枝が池面に接するように垂れこめ、時折吹く抜ける風が水裳を揺らし、ゆったりとした時間が流れています・・・ 書院の縁に腰を下ろし、時のたつのも忘れて庭を眺めていると、身も心も穏やかになってきて身体が軽くなってきたように感じてきます。昔ある人が、仕事や日常の生活に疲れた時、ここに来て一日中庭を見つめていると気持ちが晴れて心が穏やかになってくるといっていたことが思いだされてきました。

    蓮華寺12
                             静かで和む庭園

       池のはたで羽を休めるトンボ 蓮華寺13

 書院から池の淵を行くと本堂があり、本堂の参道の左右では『蓮華寺型石灯籠』といわれる六角形の笠をかぶった珍しい灯篭が並んで迎えてくれます。

    蓮華寺9

 隠れた紅葉のスポットとして知られる蓮華寺ですが、新緑と杉苔の頃、そして初秋の頃に訪れるには最高のお寺です。洛北の里の閑静なたたずまいの中でのゆったりとした時間を一度感じてみてください。

補陀洛寺(小町寺) ~ 小野小町ゆかりの寺 2 ~

 小野小町伝説やゆかりのお寺は日本各地にありますが、京都では山科にある 随心院 とともに知られているのが左京区静市市原にある 補陀洛寺 で、 小町寺 とも呼ばれ、京都の通称寺の札所になっています。ここは小野小町終焉の地といわれ、本堂には 小野小町の老衰像 が安置され、境内には 小町姿見の井戸 や 小町・深草少将の供養塔などがあります。

  小町寺5  小町寺6
                 小町姿見の井戸                         深草少将供養塔

 叡山電鉄鞍馬線の市原駅を降りて南にしばらく歩いていくと左手にこんもりとした岡があり、石垣の下に『 こまちてら 』と書かれた石碑が置かれています。

   小町寺1

           小町寺7

 石段を登りつめるとひっそりとした境内に小さな本堂の建物が・・・

   小町寺2

 この寺は、もともとは静原にあった清少納言の曽祖父清原深養父の山荘を補陀落寺というお寺にしたのがはじまりで、中世に荒廃していたものを現在のお寺が名を継いだといいます。その補陀落寺が小町寺と呼ばれるのはこの地が小野氏の領地で、各地を流浪していた小野小町が晩年、ここに暮らして亡くなったとの伝承と、謡曲「 通小町 」の舞台とされたためといわれています。

           小町寺3 境内にある13本の幹がある13本檜

 絶世の美女と称えられた小野小町の生涯はいかなるものだったかは想像するしかないのですが、

       花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に

の歌に人生のすべてが込められているのではないでしょうか。
鳥の声と風の音、時折響く電車の走る姿を遠目に見ながら佇んだ補陀洛寺は、ベールに包まれた小野小町に思いを馳せながら人生のはかなさを感じた一日でした。

随心院 ~ 小野小町ゆかりの寺 1 ~

 百人一首

      花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に

の歌で知られる 小野小町 は平安時代の女流歌人で六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙のひとり。そして絶世の美女といわれ、楊貴妃、クレオパトラとともに世界三大美女といわれていますが、出生や生い立ちは正確にはわかっていないようです。平安時代、女性は実名では呼ばれず、父や夫の役職名で呼ばれることが多かったようで、小野小町は小野氏の娘であったと考えられているようです。小野氏は遣隋使で知られる小野妹子を祖先とする中級の貴族で、京都市山科にある小野の里は小野氏が勢力を持っていた地といわれ、小野小町は晩年この地で余生を送ったと伝えられています。 随心院 は邸宅跡という話も伝わり、朝夕の化粧に使ったとされる 化粧の井戸 貴公子から送られた千束の恋文を埋めたと伝わる 文塚 恋文を下張りしたといわれる 小野小町文張地蔵 など小町の遺跡が多く残されています。

    随心院12   随心院13
                小町化粧井戸                           小町文塚

 由緒によれば、随心院は小野門跡とも呼ばれる真言宗善通寺派の大本山で、弘法大師より八代目の弟子にあたる仁海僧正が正暦2年(991)にこの地に曼荼羅寺を開創し、本尊の如意輪観音を祀ったことにはじまったといいます。仁海僧正は神泉苑の請雨修法で九度も大雨を降らせた霊験あらたかな方で『雨僧正』とも称されています。その後、曼荼羅寺は順徳、後堀河、四条各天皇の祈願所となり五世僧俊の時に 随心院 と名を改め、七世親厳の時に門跡寺院となっています。

           随心院 境内に立つ仁海僧正の供養塔


 奈良街道に面した総門は門跡寺院でありながら親しみやすい雰囲気で開き、白壁の塀と植込みが整然と続く中を一直線に参道が伸び、右手には『小野梅園』と呼ばれる梅園が広がっています。

   随心院1 総門

               名勝 小野梅園 随心院

 この梅園に咲く『はねずの梅』は八重の遅咲きとして知られ、三月最終日曜日に行われる『はねず踊り』は随心院の年中行事のひとつになっています。

 梅園を過ぎると正面に築地塀に囲まれた中に甍を接して建つ諸堂が見えてきます。

   随心院5 薬医門

  随心院7  随心院6
               庫裏                        入口にたつ小野小町の歌碑

  庫裏の拝観口を入ると小野小町の色鮮やかに描かれた絵が迎えてくれます。そして書院、能之間、奥書院の襖は江戸期の狩野派の絵師によって描かれており、格調高い作品を堪能することができます。
 本堂は桃山期の寝殿造りで内部には本尊如意輪観音像を中央に阿弥陀如来像、不動明王などの諸仏が安置されています。

           随心院8 本堂

 書院から本堂にかけては大杉苔の庭が広がり、季節を告げる花木が程よく植えこまれています。本堂の傍の池ではゆったりと鯉の群れが戯れ、かすかに秋を感じる風に時の過ぎるのを忘れていつまでも鯉を追っかけていました 

   随心院9

 季節ごとの花が楽しめる随心院は春の桜、シャクナゲ、キリシマツツジ、サツキ、秋の紅葉、はねず梅はよく知られていますが、初夏から夏にかけて咲くノウゼンカズラは見事で、鮮やかなオレンジ色の花が天にのぼるように咲き誇るさまは力強さを感じさせてくれます。

  随心院10  随心院11

 また小野小町といえば小町を慕って小野の里に、通い続け九十九日の夜、降る雪と発病により最後の一夜を前にこの世を去ったという『深草少将の百夜通』の話が有名ですが、境内には仁海僧正の供養塔の傍らに小町が榧の実で数を取り、後に小野の里に播いたといわれる榧の木が大木となって、今もこの地で深草少将を待っているかのようにそびえています。

            随心院 

 現在でも美女の代名詞である『小町』のモデル小野小町、出生も経歴もベールに包まれていることが伝説を生み、憧れを感じてしまう存在なのかもしれません。

 花データ

~ ノウゼンカズラ ~ ノウゼンカズラ科  つる性の落葉樹

   中国原産で日本には平安時代に渡来したといわれる。ノウゼンとは凌霄の字音によるといわれ、霄は「空」「雲」の意味があり、空に向かって高く咲く花の姿を表し、古くはノウセイカズラと読まれ、これがなまってノウゼンカズラとなった。夏から秋にかけて橙色や赤色の大きく美しい花を咲かせる。
プロフィール

ポピーランド

Author:ポピーランド
FC2ブログへようこそ!

アクセスカウンター
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR