2014 京の冬の旅 3 ~ 妙心寺 聖澤院(しょうたくいん) 珠玉の水墨障壁画 ~

 京都市右京区花園の地にある 妙心寺 は末寺が全国に3500寺もある臨済宗妙心寺派の大本山として知られる。寺院の歴史は暦応年間(室町時代初期)に花園天皇がこの地にあった離宮を禅寺とし、大徳寺を開山した大燈国師の弟子 関山慧玄 を開山に迎えたことにはじまる。その後、応仁の乱により焼失した堂宇は、土御門天皇が 雪江宗深 に再興の論旨を下し、細川勝元や政元らの援助により建立された。「 中興開山 」と仰がれた 雪江宗深 は門弟の教育に努め、景川宗隆、悟渓宗頓、特芳禅傑、東陽英朝の四人の優れた弟子を生み、景川宗隆開祖の「龍泉派」、悟渓宗頓開祖の「東海派」、特芳禅傑開祖の「霊雲派」、東陽英朝開祖の「聖澤派」は「 妙心寺四派 」と呼ばれ妙心寺派発展の礎となった。今年の 京の冬の旅 で初めて公開された妙心寺 聖澤院 は「聖澤派」の本庵である。

 いつもは方丈と庫裏の屋根だけが見える聖澤院の山門を入ると、方丈(客殿)の玄関には多くの人の姿があった。

  聖澤院1 
         妙心寺境内からの方丈と庫裏

      聖澤院2 山門

         方丈(客殿) 聖澤院3

      聖澤院4 庫裏

 方丈に入ると左手には開祖英朝の500年遠忌に合わせて作られたという枯山水の南庭が柔らかな早春の陽ざしの中にあった。

  聖澤院5

                聖澤院6

 方丈は江戸時代慶長年間に建てられたというが、内部には仏壇らしきものは見当たらない。聞けば、この公開のために早朝にお勤めを済まされておられるとのこと。
 見どころである方丈の84面にも及ぶ襖絵は、江戸前期から中期の狩野派の絵師片山尚景によって描かれたものという。墨一色で描かれた襖絵は年月によりかなり日焼けしたり、薄くなり消えてしまっている部分はあるものの、七頭の獅子の躍動感あふれる姿を描いた「獅子図」、四季の風情を描いた「花鳥図」、牛の足跡を見つけた若者が牛を追いかけて乗りこなす姿を描いた「十牛図」を見ることができる。次回公開の予定は定かではないとのことだが、もし公開があれば修復がなされているかもしれないとのことなので、描かれたままを見るのは今回が最後かもしれない。

  聖澤院7
             方丈と書院の渡り廊下の間に作られた庭

 方丈の裏には数寄屋の趣きを取り入れた書院がある。江戸前期に建てられという内部には江戸幕府の絵師・狩野典信と近代の文人画家・富岡鉄斎が描いた襖絵と壁貼付絵がある。狩野典信が描いた一の間の「山水・麒麟図」は立体感のある二頭の麒麟が描かれ、二の間の「竹林七賢図」では竹林に佇む隠士の静かな姿が描かれていて、対照的な画風が印象的である。また富岡鉄斎が60才の時に描いたという雄大な山岳風景の「厳栖谷飲図」には圧倒される。富岡鉄舟の作品は掛け軸などでよく目にすることがあるがこのような大きな作品を見るのは初めてのこと、墨一色でこれほど感銘を受けるとは・・・

 毎年この季節に行われる 京の冬の旅 に今年も大満足でした 
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東門院守山寺(守山観音) ~ 延暦寺の東鬼門を守る寺 ~

 滋賀県守山市は中山道67番目 守山宿 として、京から東に下る時の最初の宿泊地で「 京立ち守山泊まり 」といわれ繁栄した宿場町である。JR守山駅から西に少し歩いた中山道沿いにある 東門院守山寺守山観音)は江戸時代に出版された『木曽路名所図会』にも境内図が紹介されている寺院である。寺伝によれば、延暦寺を開いた伝教大師 最澄 が延暦7年(788)に東の鬼門を守るために建立したといわれ、寺名もそこに由来しているといわれるが、比叡山を守るという意味で 守山寺 とも呼ばれている。江戸時代には 朝鮮通信使 の宿舎にもなっていた。

 中山道に面した仁王門は室町時代の建立といわれ、坂上田村麻呂が戦勝祈願して勝利をおさめたことにより門出仁王門とも呼ばれるという。

   東門院1
     仁王門

 門を入ると薬師堂、水盤舎、大師堂があり、正面に本堂がある。

     東門院6 大師堂

  東門院3
     本堂

 本堂の中央には厨子に納められた十一面観世音菩薩立像が安置されている。弘仁元年に、湖水上に毎夜一条の光明がみえるので、湖岸の人々が光の放っているところに網を投げ入れると、十一面観世音菩薩の霊像が現れたので、嵯峨天皇の勅定により東門院に安置されたという。
 また本堂内には中山道守山宿の奉行高札場の高札が掛けられているがこの高札は全国でも珍しいものという。

             高札 東門院4

 本堂の右側には護摩堂(不動堂)がある。この中には興教大師(真言宗中興の祖)が自ら刻まれたという不動明王坐像が安置されている。

     東門院5 護摩堂(不動堂)
     
 さらに境内の奥に石造五重塔、石造宝篋印塔、石造宝塔がある。これらの塔は様式から鎌倉時代に造立されたといわれる。中でも重要文化財に指定されている五重塔の初重の正面には阿弥陀、背面には釈迦とみられる仏坐像が彫られている貴重なものである。

  東門院7
     石造五重塔を挟んで宝篋印塔、宝塔

 かつて中山道を通って江戸を目指した旅人はは吉川にかけられた土橋を渡り、木々に囲まれた東門院に旅の無事を祈願して最初の一夜を過ごしていたことだろう。近江国三十三か所観音巡り、湖国十一面観音霊場、近江湖南二十七名刹霊場の札所として東門院は今も人々の祈願の寺として人々を迎えてくれる古刹なのです。

  東門院8
     吉川にかかる土橋
 

薬師院(こぬか薬師) ~ 京都十二薬師霊場第九番 ~

 日本の仏教関係の本山のうち、四分の一が集まっている京都には、世界に知られた大寺院から庶民が身近で仏様と人生の哀楽や運命の酷薄さをひそかに語りかける町中の小寺までさまざまなお寺がある。
 京都では平安時代より 薬師参り が盛んに行われ、無病息災、当病平癒、厄難消除、所願成就などの願をかけて順に巡る風習があったという。

 京都市中京区釜座通二条上ル大黒町にある 薬師院 もそのひとつで、不来乎薬師こぬか薬師)とも呼ばれる黄檗宗の寺である。本尊の薬師如来は延暦元年(782)に、伝教大師最澄が16才の時に一刀三礼(仏像を彫るとき、ひと刻みごとに三度礼拝すること)で彫刻された薬師仏七体のうちの一体で、延暦寺から美濃国横倉の一院に安置されていた。鎌倉時代、疫病が全国に広まった時に、住職の夢に薬師如来が現れ、「一切病苦の衆生、我が前に来たらば諸病ことごとく除くべきに、来ぬか、来ぬか」と夢告があり、これにより皆の病が平癒したので、以来、「こぬか薬師」と呼ばれるようになったという。その後、織田信長がそのご利益を聞き、京都に移したという。お寺の方によると現存する薬師仏は延暦寺とこの薬師院のみとのこと。そして江戸時代に鉄面寂鎌禅師が再興し黄檗宗となったという。

  薬師院1

 入口の「こぬか薬師如来」と書かれた石柱がたっている。本堂の前には赤と青ののぼりが風に揺らめいていた。以前の薬師院は広大な境内を持っていたが、幕末の蛤御門の変で焼失、以前の裏門を正面にして縮小再建されたという。

  薬師院2

   薬師院3   薬師院4

 本尊の薬師如来は秘仏であるが、毎年10月8日に御開帳があり開扉法要が行われ、この日には薬師如来を拝観することができるが通常はお前立にになる。それでも気持ちの上では願いが叶うような気になる・・・お寺の方によると、第二赤十字病院が近いので病院の行きかえりに参拝される方も多いという

  薬師院6

                薬師院5

 また薬師院ではご住職が黄檗山萬福寺で典座長を務めておられた方で、予約すれば普茶料理を頂くことができる。
 

2014 京の冬の旅 2 ~ 妙顕寺 三つの庭園が美しい尾形光琳ゆかりの寺 ~

 京都における日蓮宗最初の道場として鎌倉時代に創建された 妙顕寺 は京都市上京区寺之内通堀川東入に位置し、後醍醐天皇より法華宗布教の勅旨を賜った門下唯一の勅願寺である。資料によれば開創の 日像上人 は開祖日蓮聖人の孫弟子にあたり、7才で入門して日蓮聖人の近くで修行した。そして日蓮聖人より京都での開教を遺言され、他宗の迫害や幾度もの配流にあいながら布教活動を行い法華堂を建立した。室町時代には京の半数の人をも信徒にするほど隆盛を極め、京都での日蓮宗の中心的存在になり、戦国時代には織田信長の京都での宿泊所にもなっていたという。寺地はたびたび移転し、本能寺の変の後に豊臣秀吉により現在の地に移されたという。

 寺之内通りに面した山門から直線にのびる石畳の奥に本堂が見える。両脇には楓の木が整然と並び、紅葉の頃は赤く染まる中に本堂が浮かぶ美しい景色が広がる。

     妙顕寺1 山門

   本堂まで直線にのびる石畳 妙顕寺3

 門を入ると右手に日蓮、日朗、日像の三祖が祀られている三菩薩堂があり、その奥に三師舎利を納めた御真骨堂が建っている。

     妙顕寺4 三菩薩堂

 三菩薩堂と渡り廊下でつながれた尊神堂には鬼子母神が祀られ、安産子易祈願の霊場として参拝する人が多い。

     尊神堂(鬼子母神堂) 妙顕寺5

 伽藍の中央にある総欅造りの本堂は日蓮宗の伝統的な形式といわれ、江戸時代に造られたという。内部の格天井には信徒の家紋が張られ、天蓋に描かれた天女の姿が美しい。須弥壇には「南無妙法蓮華経」と書かれた宝塔の両脇に釈迦如来像、多宝如来像が祀られ、日蓮聖人像や日像上人像が安置されている。

  妙顕寺6 本堂

 本堂から大玄関、庫裏に向かう間には桜が幾つか植えられていて、花の頃は境内がピンクに染まり、隠れた名所のひとつ。

 そしてこの妙顕寺は庭園が美しいことでも知られている。客殿の前には勅使門に面して「龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)」と名づけられた枯山水庭園が白砂と本堂の屋根が調和して奥行きの深さを感じさせてくれ、客殿と書院の間にある「孟宗竹林の坪庭」はまっすぐに伸びる竹がすがすがしい気持ちにしてくれる。書院前に広がる「光琳曲水の庭」は尾形光琳の紅白梅図屏風をモチーフに作られたといわれ、赤松の枝ぶりや白砂で表現された川の流れに華やかな作風を感じさせてくれる。

 妙顕寺7  妙顕寺8
                  龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)

        孟宗竹林の坪庭 妙顕寺9

 妙顕寺10  妙顕寺11
                                    光琳曲水の庭

 また今回の特別公開では尾形光琳が晩年に描いた「寿老松竹梅三幅対」が公開されているが、尾形光琳は妙顕寺の檀信徒で妙顕寺塔頭泉妙院に墓がある。

 さらに日蓮聖人御真筆「玄旨伝法本尊」、後醍醐天皇綸旨、日像上人筆の「極細字法華経」など数々の寺宝を見ることができる。
 
 甲子園ほどの広大な境内を持つ妙顕寺は伽藍がゆったりとしていて、清々しい空気が流れているそんな気がするお寺でした。

 

西宮神社 ~ 「えびす様」の総本社

 福の神 として信仰される『えびす様』の総本社として全国から崇敬を集めている 西宮神社 は西宮市社家町にある。
創建の時代は明らかではないようだが、平安時代に編纂された辞書『伊呂波字類抄』に『えびす』の名がみられ、その頃には鎮座していたと考えられている。社伝によればえびす神は海上交易・漁業に霊験があるとして信仰され、室町時代以降は七福神信仰により、えびす様が福の神の代表となり西宮神社がその信仰の本拠地として人形操りや謡曲、狂言などの芸能をとおして全国に広まっていったという。

 社はクスノキや常緑広葉樹がうっそうと茂る広大な鎮守の森の えびすの森(兵庫県天然記念物) の中にある。東側から南側にかけては室町時代に建造されたという日本三大練塀のひとつ 大練塀 が囲んでいる。豊臣秀頼により再建された表大門は赤く丹塗りに塗られていることから『赤門』とも呼ばれ、毎年1月10日の早朝に行われる『福男』選びにはこの門の開門と同時に本殿に向かうことになる。。

  西宮神社1 
     表大門と大練門

      西宮神社2 本殿をめざし駆け抜ける参道 

 入母屋造りの拝殿の奥に建つ本殿は、徳川幕府第4代将軍家綱より造営された春日造りの屋根を三連結した唯一独特な構造で、『三連春日造り(西宮造り)』と称されていたが、1945年の戦火で焼失、1961年に元のままに復元されている。

  西宮神社3
     境内からの三連春日造りの本殿

             拝殿 西宮神社4

     西宮神社5 本殿


 拝殿の前には池を配した庭が広がり、花木や木が植えられ池の中にある岩場の上には伊勢神宮遥拝所がある。

  西宮神社7

                西宮神社8

 広い境内には多くの摂社・末社が点在しているが、そのひとつ南宮神社は 廣田神社 の管轄で社殿も廣田神社の方を向いて建っているといい、境内の中では方角がわかりにくいが社殿の先には西宮の地名となった神社と向かい合っていることになる。

     西宮神社6 南宮神社

 また同じく境内には百太夫神社という社がある。西宮神社からお札を貰って諸国をめぐり、人形を操りながら宣伝を行った『傀儡師集団』は百太夫を祖とした 百太夫社 を祀っていたが衰退して、阪神電鉄の西宮駅の北側にあった神社を西宮神社の境内にに移した、元の場所には碑が立っていた。

      『傀儡師故跡』の碑 西宮神社9

 正月の9~10日まで行われる十日戎は、100万人を超す人々が訪れる阪神間最大のお祭りで、親しみをこめて『えべっさん』と呼ばれている。時期は過ぎてしまったが、身近な福を求めて西宮神社にお参りをしてきたのだが・・・


参考データ

 日本三大練塀  名古屋・熱田神宮の信長塀  京都・三十三間堂の太閤塀  西宮・西宮神社の大練塀

    

廣田神社 ~ 勝運・厄除けの寺 ~

 兵庫県西宮市大社町にある 廣田神社 は201年、武庫の地・廣田の国に創建されたと伝わる古大社。
『日本書紀』によると神功皇后が新羅遠征からの帰途、船が海中をまわって進めなくなったとき、天照大神の神勅があり、天照大神の荒魂をこの地に祀ったのが鎮座の起源とされている。それ以来、伊勢の皇大神の別体として崇拝を集め、明治に入ってからは兵庫県唯一の官幣大社に列せられたという。
京都の西方に位置するため中世の貴族たちからは「 西宮 」と呼ばれ、『西宮参拝』『西宮下向』という言い方がなされ、やがてその神郷一帯を含む地域名として「西宮」と使われるようになり、現在の西宮市に受け継がれているという。

 松の並木が続く参道を進んでいくと注連縄がかかる神門がある。

     廣田神社1 一の神門

           二の神門 廣田神社2
 
 二の神門を過ぎた左手に歌碑が立っている。廣田神社は和歌の神様としても信仰され、平安時代末期には社頭でたびたび歌合せが開催されていたという。

 参道抜けると視野が広がり、その中央に水色の屋根の拝殿が見えてくる。

  廣田神社3

 拝殿の奥には真ん中に天照大神御神荒御神が祀られている御本殿、左右に住吉大神や八幡大神などを祀る御脇殿が並ぶ。

  廣田神社4

 荒魂を祀る廣田神社は勝運の神として武家から篤い尊崇を得ていたといわれ、現代では阪神タイガースの監督や選手がシーズン前に「必勝祈願」に訪れることでもよく知られている。

 そして拝殿脇の境内には松尾神社、五末社、伊和志豆神社が立ち並ぶ。

  廣田神社7  廣田神社6
   松尾神社                         五末社

        伊和志豆神社 廣田神社5

 緑に豊かな廣田神社の境内は3月下旬か4月にかけては薄紫に覆われる。2万株にもおよぶコバノミツバツツジの群落が境内から広田山にかけて咲き誇り、風景が一転する。散策路を歩きながらのんびりと鑑賞するのもオススメ 

     廣田神社8 境内から続く散策路
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