芦浦観音寺 ~ 琵琶湖の湖上管理をつかさどった寺 ~

 滋賀県草津市芦浦町にある 大慈山観音寺、通称・芦浦観音寺 は聖徳太子が開基、秦河勝が建立したと伝わる古刹。十一面観世音菩薩(秘仏)を本尊とした天台宗の寺院である。一時、廃寺となっていたが、室町時代に京都普勧寺の歓雅により中興され初代住職となり、その後七代目住職の慶順が織田信長により琵琶湖の水運権を任された。豊臣秀吉から琵琶湖上交通を管理する 船奉行 に任命され領地も拝領し、九代目住職は秀吉の側近として活躍し、徳川綱吉によって職を解かれるまで湖水奉行、普請奉行として華々しい政治の中にあったという。

 住宅地の中にある寺は周囲を堀で囲み、表門は石垣や土塁で築かれ中世の城郭のような外観になっている。

       芦浦観音寺1

  芦浦観音寺2

 境内には阿弥陀堂、書院、本堂、聖天堂、納戸が残っている。

 阿弥陀堂は室町時代の入母屋造り、檜皮葺の禅様式で京都普勧寺から移されたもので、今も往時の面影をとどめた建物になっている。

 芦浦観音寺5

 書院は徳川将軍が上洛の際の宿泊所であった永原御殿から江戸時代初期に移築されたという。

 芦浦観音寺7

 本堂は最近に新築されたものだが、入り口には近隣の小学校から寄贈されたという魚や動物の瓦のついた門がある。

 芦浦観音寺6

 聖天堂の屋根の上や建物の周囲には、大根が聖歓喜天の供物であることを表す大根紋・・・

 芦浦観音寺3  芦浦観音寺4

 この芦浦観音寺の拝観は予約制のであるが、年に2回(5月2,3日・11月23日)一般公開されている。
境内にはモミジや根元からたくさんの枝を出した多行松、季節の花が植えられ、ところどころに灯籠や石が置かれていてのんびりと散策も楽しむことができる。

      芦浦観音寺8

                芦浦観音寺9
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石道寺(しゃくどうじ) ~ 集落の人々が守る子授け観音 ~

 滋賀県の湖北は観音信仰が厚い地域で 『 観音の里 』 として知られ、多くの 十一面観音立像 が残され、今も集落の人々より守り続けられている。己高山(こみたかやま)山頂から西麓一帯は古代から中世にかけて天台系山岳仏教の霊場として栄え、多くの寺院が建立され十一面観音立像が安置されたという。鶏足寺を中心に大規模な密教寺院として隆盛を極めていたというが、明治維新以降に次第に衰退、現在は廃寺や無住寺となってしまった。

 その中のひとつである 石道寺(しゃくどうじ) は奈良時代(726)に延法上人により開基され、行基が仏像を彫刻し堂宇を建て、のちに伝教大師最澄が十一面観音、持国天、多聞天を刻み、土地の名に因んで石道寺と命名され比叡山の別院となり、国家鎮護の祈願所として大いに栄え、明治の終わりごろまでは格調の高い名刹であったという。しかし、仁王門の焼失や山津波により無住の寺となってしまった。現在の石道寺は大正時代に里人により旧石道寺の本堂を移し、旧石道寺と向山の観音堂の諸仏を合祀されたものという。

 紅葉に囲まれた参道の坂道を登って行くと木々の間に本堂が見えてくる。山の麓にひっそりと建っている本堂は山里らしい雰囲気が漂い懐かしさを感じる。

 石道寺1

       石道寺2

 石道寺3

 本堂の中には厨子に収まった十一面観音立像が安置されている。この十一面観音は「 子授けの観音様 」として知られ、また井上靖氏の小説『 星と祭 』の中で「 村の娘さんの姿をお借りになってここに現れていらっしゃるのではないか 」と例えられている観音様である。一本造りに極彩色の施され、唇に一すじの紅が残り、柔和で穏やかな表情が印象的な観音さまである。本堂の中にはもう一体の十一面観音、持国天、多門天、仏具の数々があり、これらはすべて里人の手で管理されているという。

 そしてこの石道寺から少し歩いたところに紅葉の名所・ 鶏足寺(旧飯福寺)跡 がある。鶏足寺(旧飯福寺)跡は奈良時代に行基が常樂寺として創立し、後に最澄が鶏足寺と改めれ、その名の由来は、雪に残る鶏の足跡をたどっていくと、辿り着いた池に十一面観音を見つけたという伝説からだという。

       石道寺4

 湿原や茶畑の中にある遊歩道を行くと平地が広がっている。そこが旧飯福寺跡になる。

  石道寺5

 そこから紅葉に覆われた参道を行くと、左右にはかつての僧坊の跡らしき石垣があちこちに残っている。最盛期の頃は1158もの僧坊があったと書かれているから、当時の繁栄はいかなるものだったか計り知れない。
 
 石道寺6  石道寺7

 石段を上りきった所にあるお堂のような建物が鶏足寺になる。

  石道寺8

 紅葉の頃は紅葉のスポットとして多くの人でにぎわう鶏足寺跡も、新緑や初秋は人影もなくゆっくりと散策を楽しむことができ、石道寺の観音様も心行くまで堪能することができるのでオススメです。

 また、鶏足寺をはじめかつて己高山にあった寺々の寺宝は現在己高閣・世代閣 の文化財収納庫に納められ地元の方々の管理の下、一般公開されているので多くの仏像をみることができるのでこちらもオススメです。

櫟野寺(らくやじ) ~ 山里にある平安仏の宝庫 ~

 忍術発祥の地として知られた甲賀に 伝教大師最澄 が刻んだと伝わる十一面観音坐像を本尊とした寺院がある。甲賀市甲賀町櫟野にある いちのいの観音 と呼ばれる 櫟野寺(らくやじ)がその寺である。寺の略縁起によれば、延暦11年(792)最澄が比叡山延暦寺の根本中堂の用材を求めてこの地を訪れたとき、霊夢を感じ、櫟(イチイ)の生木に十一面観音刻み、安置されたのが開基という。

 昔は宿場町であったというのどかな農村の一角、参道には石仏が並び参拝者を迎えてくれる。左右に仁王像が安置された山門の奥は明るい境内が広がりあまり古刹の感じはしないが・・・

       櫟野寺1 仁王尊が置かれた山門 

        整然と並ぶ石仏 櫟野寺2

  櫟野寺3 明るい境内

 境内にそびえていたという樹齢千年といわれた櫟の木はすでに枯れ、根元が残っているだけ。

  櫟野寺4 櫟の木の根

 焼き討ちや火災などの災難の続いた本堂は昭和に再建されている。焼け残った物の一部は東門の天井に使われていた。

       櫟野寺5

   本堂の遺構が使われた東門 櫟野寺6
    
 日本最大坐仏十一面観世音は本堂の奥の宝物館大悲閣の中央の厨子に納まっている。左手に華瓶、右手に念珠を持ち、肩幅と厚みのあるどっしりとした体に、慈愛にあふれた表情が心に響く仏様  以前は33年毎の開扉以外は拝観することができなかった秘仏だったが、現在は春と秋の特別拝観がある。
 そしてこの十一面観音を取り囲むように平安期の仏像が並んでいる。坂上田村麻呂は鈴鹿山の群賊を平定できたのはこの観音の御力によるものとこの寺を祈願寺と定め、自らの姿を彫って納めたという毘沙門天の像も置かれている。この寺の行事のひとつに奉納相撲があるが、これは田村麻呂が家来に命じて国技の相撲を奉納したことによるものという。この毘沙門天の他に、薬師如来坐像、聖観世音、地蔵菩薩、吉祥天など20体以上が並ぶ様は壮観という以外に言葉がでない。

      櫟野寺7 奉納相撲に使われる土俵

 滋賀県は仏像の宝庫といわれる。普段目にする機会の少ない貴重な仏像が、どこに行ってもその地域の人々が守り、受け継がれ、その地域に根づいている。この櫟野寺も昭和の火災の際には在所の人々が駆けつけて、仏様を運び出したという。その信仰心と結束の固さにより今、平安期の仏像をまじかで目にすることできると思うと感慨深い。訪れる人々に安らぎと憂いを与えてくれるこれらの平安仏に是非その目で確かめて頂きたい。 
      

萬福寺 ~ 明朝様式の大伽藍 ~

 日本の禅宗は 臨済宗曹洞宗黄檗宗 の三宗で、黄檗宗の大本山が宇治市にある 萬福寺 である。萬福寺は寛文元年(1661)に明の僧 隠元降琦 により開かれた。隠元禅師は中国福建省にある黄檗山萬福寺の住職であったが、63才の時に弟子20人を伴って来朝し、後水尾法皇、徳川4代将軍家綱公の崇敬を得て、宇治に寺地を賜り寺を開かれ、中国の自坊と同じ『黄檗山萬福寺』と名づけられた。黄檗宗では儀式作法は明代に制定された仏教儀礼で行われ、毎日誦えるお経は黄檗唐韻で発音し、中国明代そのままの法式梵唄を継承しているという。

  萬福寺1

 鯱に似たインドの想像上の動物『 摩伽羅(まから)』の飾られた総門を入ると放生池がありその先に三門がある。

       萬福寺2

 三門の正面には布袋尊を祀った天王殿、奥に釈迦如来像を本尊とした大雄宝殿、その奥に卍くずしの模様で句欄が造られている法堂が三門から直線上に並び、左右には対照的に諸堂が配置されている。そして各諸堂は中国風の回廊で結ばれている。

            天王殿 萬福寺10

       萬福寺8 大雄宝殿

             法堂 萬福寺7

       萬福寺4 法堂の左右にある方丈

  萬福寺3 中国風な回廊

 萬福寺6  萬福寺9
                     鼓楼と対称に配置された鐘楼 

 厳しい修行の行われている寺域にはところどころに潤いを与えるかのように松が植えられている。

  萬福寺4 緑が映える境内

 隠元禅師の来朝以来、日本には煎茶、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚など多くのものが伝えられたが、そのひとつに日本の寺の精進料理にあたる 普茶料理 がある。普茶料理は高タンパク低カロリーの植物性タンパク質食品と季節の野菜を使った料理を大皿に盛り、取り分けて食べるようになっている。この普茶料理は予約すれば萬福寺の中でも頂くことができる。
 仏教の他多くの文化を日本に伝えた黄檗宗の祖隠元禅師は今、開山堂に祀られている。日本の寺院とは少し異なった異国の雰囲気が漂う萬福寺、一度は訪れて頂きたい寺院のひとつです。 
    

放生院(橋寺) ~ 宇治橋の守り寺 ~

 宇治川にかかる 宇治橋 は奈良元興寺の僧 道登 によって大化2年(646)に架けられたという。その橋の東詰にある 放生院(ほうじょういん) は宇治橋の橋守りの寺という由緒から 橋寺 の名で呼ばれている。正式には 雨宝山放生院橋寺 という真言律宗の寺。寺歴によると、創草は推古天皇12年(604)聖徳太子の発願により 秦河勝 が建立、聖徳太子の念持佛地蔵菩薩を祀り、常光寺地蔵院と称したという。放生院の名は鎌倉時代の弘安9年(1286)に、奈良西大寺の僧叡尊が橋の架け替えをし、川で死んだ人や動物たちの供養(放生会)をこの地で行ったことによるという。宇治川の中にある浮島(塔の島)の十三重石塔はその時に建立された。

         橋寺2 塔の島に立つ十三石塔

 山門を入り石段を上りつめたところに季節の花が植えられた庭が広がり、樹齢200年といわれるイチョウの大木が境内を見下ろしている。

       橋寺1

                橋寺5

 室町時代に造られた本堂には本尊地蔵菩薩立像が安置されている。鎌倉時代後期に作られたという地蔵菩薩の体内には、聖徳太子の念持佛尊影が納められているとのこと。金箔、極彩色が施された美しい姿の仏様は前のめりになりながら右足を少し踏み出し、今まさに人々を救うために・・・そんな姿に見えてしまう。
 本堂の中には他に平安後期の作といわれる不動明王像、室町時代作の頭髪を輪に束ねて頭頂に重ね衣は通肩に着るというあまり例を見ない珍しい姿の釈迦如来像が置かれてる。

  橋寺4

 本堂以外に目立った建物はないが、庭の周りには幾つかの石仏が置かれている。

 橋寺7  橋寺8

       橋寺6

 またこの寺に残る文化財に「 宇治橋断碑 」がある。日本最古といわれる石碑には道登によって初めて宇治橋が架けられたいきさつが刻まれている。天平時代の作と推定され、江戸時代に寺の境内から上部三分の一の断石が発見され、これに合うように石をつぎ足し残された原文に基づいて作られたという。

  宇治橋断碑の納められた建屋 橋寺3

 宇治橋の管理や流出の際の犠牲者の供養、再建の主導的役割をはたしてきた橋寺は、今も橋のたもとで静かに宇治橋を見守る橋守りの寺なのです。       
 

興聖寺 ~ 道元禅師初開道場 ~

 宇治川にかかる朝霧橋から右岸の川沿いを上流に歩いていくとやがて石門がある。ここから先が曹洞宗の祖道元禅師が最初に禅の道場として開基された 興聖寺 となる。正式には 仏徳山観音導利院興聖宝林禅寺 と称し、関西曹洞宗の中心的な存在となっている。

       興聖寺1 総門

 左右に石が積まれた参道は頭上に楓の枝が重なり合い、ゆるやかに流れる小川の水音が琴韻のようだということから 琴坂 と呼ばれる。石積の上にはには山吹やツツジが植えられ、春は金色の山吹が、秋には朱赤の楓が静寂な禅寺へと遺残なってくれる。この山吹の風景は 宇治十二景 の中の『春岸の山吹』として入っている。

  興聖寺2 琴坂

 琴坂の先には竜宮城を思わせる中国風の楼門が建ち、その門の間から薬医門を通して本堂が見える。

  興聖寺3 楼門

 門を入ると右に宇治十二景に入っている鐘楼が、左は岩を周囲に配した朱塗りの鎮守社がある。

 興聖寺4  興聖寺5
   鐘楼                           鎮守社

 薬医門は左右に回廊をもち、庫裏、本堂、僧堂を結び石組や刈込で構成された中庭を囲んでいる。

  興聖寺7 薬医門

      興聖寺9 僧堂


 現在の本堂は江戸初期に山城国淀藩主永井尚政が伏見桃山城の遺構を用いて建立され、血の手形や足型の残る縁板が前縁の天井に、花鳥の描かれた杉戸絵や前縁の鴬張りの廊下もある。本堂の中には道元の自作といわれる釈迦牟尼仏が置かれている。

      興聖寺6

 大書院と方丈の間には日本庭園が造られていて、蕭然とした禅寺にひと時に安らぎを感じさせてくれる。

  興聖寺8 方丈と内庭

 他に老梅庵と呼ばれる開山堂、天竺殿、経蔵などが整立ち並びぶ。

 興聖寺11  興聖寺10
   開山堂                          経蔵

 仏徳山を背に寺域に整然と並ぶ諸堂、静寂ですがすがく禅の気韻が漂う境内、一度は訪れてほしい禅寺です。

法華寺 ~ 佐保路に建つ門跡寺院 ~

 東大寺の転害門から西に延びる佐保路の突き当りに建つ 法華寺 は聖武天皇の妃・光明皇后 が父 藤原不比等 の邸宅に建立し、聖武天皇御願の国分寺である 東大寺 に対して 国分尼寺 の総本山として知らている。正式名称は『法華滅罪之寺』といい、七堂伽藍を備えた大寺院であったというが平安遷都とともに衰退し、現在の構えは 淀君 によって整えられたものという。  
 
 築地塀に囲まれた境内は開いている南大門から正面に本堂を見ることができる。

  法華寺1

 拝観入口である赤門を入ると左手に鐘楼がある。

 法華寺2 法華寺3

 鐘楼の横にある池の中には護摩堂が建っている。

       法華寺4 護摩堂

 豊臣秀頼と淀君が再建した本堂には光明皇后をモデルにインドの仏師が刻んだといわれる十一面観音立像が安置されている。彩色を施さない素木の一木彫で、茎のついた蓮の葉と蕾を背中から光線のように放射させた光背ほ独奥のものという。同じ堂内には『平家物語』でよく知られる 横笛 の像も置かれている。建礼門院徳子の雑仕女であった横笛が滝口入道との恋に破れてこの寺に入り、髪を下ろして仏道修行に明け暮れて住んだという横笛堂も境内には残っている。

            横笛堂 法華寺6

 同じく境内にある浴室(からぶろ)は光明皇后が薬草を煎じ、その蒸気で多くの難病者を救済されたところといわれる。「千人の垢を自ら流し、らい患者の膿を自ら吸い取ったところ、その患者が阿閦如来であった」との言い伝えもある。建物の横には井戸も残っている。

        法華寺7 浴室

 法華寺で忘れてならないのが本堂の横にある日本庭園。御所のお庭を客殿とともに移築したと伝えられ、江戸初期の名園として国の名勝に指定されている。春の桜、初夏のカキツバタ、紅葉の頃は特に美しいといわれる。 

  法華寺10

 また花のある寺としても知られる法華寺には、境内の東側にはもう一つ 華樂園 名づけられた庭がある。東屋や蓮池が施され庭には椿をはじめ750種類ともいわれる花木や草花が四季折々、一年を通して鑑賞できるようになっている。

  法華寺9

 華樂園の近くに茅葺の建物は光月亭といい、18世紀頃の民家を移築したもので地方民家の貴重な遺構として文化財になっている。

        法華寺8


 大和三門跡寺院のひとつ法華寺は、女人の寺にふさわしい格調ある上品さの中に、凛とした清々しさの漂うお寺です。

 ~ 参考データ ~

  大和三門跡寺院   中宮寺(斑鳩町)  円照寺(奈良市)  法華寺(奈良市)
   
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