蟹満寺 

     蟹満寺

 風変わりな名を持つこのお寺は蟹満寺京都市内から国道24号線を南下、木津川の河岸を走り山城町に入ると 『蟹満寺』と大きな看板が見える。そこを東に折れ、天神川という細い川沿いの道を走ると蟹満寺に着く。木の香りが残る山門をくぐると正面に、これまた真新しい本堂が建っている。

     蟹満寺・本堂

 このお寺の創健は古く、白鳳時代に秦氏の一族和賀によって建立され、後に行基菩薩の関与により民衆の暑い信仰を集めたとのこと。蟹満寺の由来は、この地のもともとの地名である 蟹幡郡にちなんでいるらしい。また、『 今昔物語 』に創健にまつわる有名は 『 蟹満寺縁起 』 が記されている。本堂の中央には国宝の釈迦如来像が鎮座されている。この仏像は、白鳳時代の名作で 螺髪と白毫をつけず人間味をおびた相好が親しみを感じ、なんとも心休まる仏像に思えた。

 また、蟹満寺というだけあって香炉や常夜灯などいたるところに 蟹 が施されていたのがちょっと印象的 でした。


  蟹満寺・香炉   蟹満寺・常夜灯

~余談~
蟹満寺にまつわる説話が今昔物語集・第16巻16話にあります。
この話は『山城の国の女、依観音助遁蛇難語(観音の助けに依り蛇難を遁るるの語?)』というタイトルで収録されているのですが、少々違和感を感じましたので、紹介しておきます。

話のあらすじ
昔、山城の国に某女があり、七歳より観音経を習いうけていたという。
女、ある日道すがら蟹を生け捕りにした人物に出会う。
女曰く 『その蟹をどうする?』
ある人曰く 『持って帰って喰う』
女曰く 『私は死んだ魚を沢山持っている。その蟹と交換しよう!!』
ある人曰く 『いいよ。』
女は蟹を貰いうけ、川に逃がしてあげました。

女の父、農作業に出かける道中、蛇がカエルを呑もうとする現場に遭遇。
女の父、カエルを哀れに思い、うっかりと口を滑らす。
父曰く 『カエルを見逃してくれるならば、蛇君よ、私は君に娘をくれてやろう!!』
蛇君、娘の父の言葉を快諾する。

蛇君、夜になって娘の家に参上。
娘、蛇を恐れ、倉に籠り観音経を読む。
『玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃』云々。
あら不思議。
あの日助けた蟹が仲間を引き連れ、蛇をやっつけてくれました。
めでたし、めでたし。

まぁ、こんな感じなのですが、この話、どう読んでも『蛇さんの一人損』ですよネ。
そもそもこの話、本当に仏教説話なのでしょうか?
どうも原文を読んだ感じでは、無理やり別の話を仏教説話に押し込んだ感じがするんですよ。
登場するのが蟹・蛇・カエル・魚。
これって全部、水辺の生物でしょう。
蛇は洋の東西を問わず水神を指す場合が多いですから、この話も本来はさしずめ、木津川の洪水説話かなんかじゃなかったのかな?

完全に憶測ですけれど、私はそんな風に感じました。
みなさんはどう思います?
スポンサーサイト

酬恩庵 ~一休さんのお寺~

 酬恩庵 は 頓智で有名な小坊主 『一休さん』 が晩年に暮らしてお寺であることから 一休寺 とよんだほうが通じやすい、京田辺にある 臨済宗大徳寺派 のお寺。寺の始まりは、大応国師(南浦紹明)が 禅の道場を開いたことによる。その後、元弘の乱 の兵火により灰になったが、一休禅師が再興し法祖の恩に酬いる意として 『酬恩庵』 と名づけられた一庵を建て、応仁の乱 を避けるためもあって、この庵に隠棲したといわれる。

さて、『一休さん』 の名で親しまれている 一休禅師(一休宗純) とはどんな人だったのでしょうか

北朝第6代天皇として即位した 後小松天皇 の寵愛をうけた母親は、藤原氏の出自を持つ南朝系だったため、周囲の讒言により御所を追われ、応永元年(1394年)母親の隠所で生まれたという。6才のとき出家得度、天龍寺をへて建仁寺の 慕哲 に漢詩を学び、17才で 謙翁 に参学する。19才のとき、後小松天皇が退位、21才で師謙翁の死にあい、人生を悲観して琵琶湖に入水するが救われ、華叟宗曇 の弟子となり、一休の号を授けられる。師の華叟の示寂後、さまざまな地に寓するが定住せず、1474年に勅命により 大徳寺 第47代住持となり、荒廃していて伽藍の再建に尽力するが、酬恩庵から離れることはなく、1481年、88才で酬恩庵にて示寂、境内の宮内庁が管理する 『宗純上』 の御廟所で眠られている。菊花の紋章の透かし彫の間から見える 村田珠光 作の 枯山水 の前庭の奥にひっそりと建っている御廟所は、禅師自らが88才の時建立されたという。

 一休寺・墓所 御廟所
 
 この廟所前から本堂に向かう道は、左側に緑苔と枝を伸ばした楓が茂り屏風画のような美しい絵図を描きだしている。その道沿いの右手の中門をくぐると、江戸初期の建築様式を残す庫裏の玄関から方丈へ。この方丈は加賀城主・前田利常公が 『大阪夏の陣』の時、この寺に参拝したおりに、寺の荒廃を嘆き再建されたもので、内部の襖絵は 狩野探幽 の筆によるもの。方丈周囲の庭園は 江戸初期の 禅院枯山水庭園  北庭は枯滝落水を表現した 蓬莱庭園 で、低い土塀の先に街並み糸山稜がのぞめる。南庭は白砂とサツキの刈り込みを主とした庭で御廟所の瓦屋根越しに山の緑を借景としている。のどかな春の日差しが差し込んでいたこの日は、拝観の人もほとんどなくゆっくりと庭園を眺めることができ、時折鳴く鶯の声に酔いしれた幸せなひと時であった

 一休寺・庫裏 庫裏

一休寺・庭園  一休寺・庭園2

 方丈を後に 本堂 に向かう。この本堂は足利6代将軍・義教の帰依により建立されたもの。さらに右手奥に 開山堂 がありこの中には、一休が安置した大応国師の木像がある。

一休寺・本堂  一休寺・開山堂
    本堂                     開山堂


 境内の奥には 20世紀の森 と題した森が広がり、現代の石造群が置かれていた。 また、小さな石橋には『このはしわたるな』の木札が・・・ 

 一休寺・境内

一休寺・20世紀の森  一休寺・20世紀の森2

 また、境内や 20世紀の森には多くの椿が花をつけていましたよ 

一休寺・椿  一休寺・椿2

 京都市市内からは離れているが、四季折々の情緒を味わうことのできるので、是非一度は訪れたいお寺です

 ~参考データ

  真珠庵  一休禅師を開祖として創建された大徳寺随一の塔頭寺院
 方丈内部の各室は長谷川等伯と曽我蛇足による水墨画の襖絵で飾られ、書院・通遷院に属する茶室は 金森宗和 ゆかりの名席。また方丈庭園は 村田珠光作庭の 『七五三の庭』と称される枯山水庭園と伝えられている。
通常は非公開だが、『文化財特別拝観』などの折に拝観することができる。


 花データ

~ 椿 ~ ツバキ科ツバキ属  
 日本原産の常緑性高木で古来から日本人に愛され、多くの品種が作られた。茶道でも珍重され『茶花の女王』ともいわれる。材木、木灰、木炭、椿油など用途も多い。     

玉桂寺 

 滋賀県甲賀市信楽にある 玉桂寺 は奈良時代、 淳仁天皇 が造営した離宮 『保良ノ宮』 の跡に 空海(弘法大師) が開いた 真言宗 のお寺で、後に文徳天皇と後花園天皇の勅願寺にされたという。
信楽高原鐡道の玉桂寺前駅で下車、川沿いの細い道を進むと山側に山門がある。その山門をくぐり最初に目にする鮮やかな 風車 の数に圧倒 これは水子供養のためにお地蔵さまに手向けられたもの。いつもなら静かな境内に、カラカラとなる音が響き渡るが、この日は 『お彼岸』 法要のため読経の声に風車の音は消されていました。
お地蔵さまの後ろには 一願成就大不道明王 が境内を見下ろすようにそびえったている。

玉桂寺・境内  玉桂寺・一願成就大不動明王




参道の両側には、空海の手で植えたと伝わる天然記念物の 『高野槇』 が群生しており、その巨大さは目を見張るばかり。

玉桂寺・参道  玉桂寺・高野槇



 本尊である 阿弥陀如来立像 は秘仏にのため見ることはできないが、鎌倉時代の 快慶 作といわれ重要文化財に指定されている。また、このお寺にある 観音菩薩 は ぼけ封じに 『ご利益』 があるといわれ多くの人が訪れている。 

 花データ

 ~高野槇~  コウヤマキ科 常緑針葉樹 
日本固有種で、世界三大造園木の」一つ。和名は、高野山に多く生えていたことに由来し、高野山では霊木とされる。

~余談~
上の玉桂寺の紹介文はウキペディアなどを参考に書いたものです。
今手元に図書館から借りてきた甲賀郡史なる書物があります。この書物は、大正十五年に甲賀郡教育会編纂により刊行されたものを原本に復刻したもののようですが、その中にある玉桂寺の項には少々奇妙なことが記してあります。
本尊『地蔵菩薩』
えっ! 嘘っ! なんでだ? まさか阿弥陀如来立像が重文に指定されたもんだから、お地蔵様は左遷されちゃったのか? 本を借りてきたのは参詣の後だったので、地蔵菩薩の確認はしていませんが、今もひっそりと安置されていることを願うばかりです。よもや廃棄なんてことないですよネ。
更に不思議なことに、この本に添付されている資料『興福寺官務牒疏』には本尊『薬師仏』になっていますネ。まぁ、こちらは明治35年8月9日の火災で本堂諸共灰燼に帰したのかもしれませんが…
あと、この書物によれば『保良ノ宮』=『邂逅ヶ洞といへる宮址』なんて言葉になってますネ。
寺宝についても半鐘・釣鐘の記述はありますが、阿弥陀如来の方はノータッチです。
時代が変われば、寺も変わるということなのでしょか。
諸行無常ですネ…
 

真如堂 ~サンシュユ~

 洛東にある 真如堂 は 正式には真正極楽寺という天台宗のお寺。しかし通称名である 「真如堂」 の方が知られている。華美な飾りのない諸堂、広々とした境内、緑葉樹に囲まれた三重塔の存在感、私はこのお寺が大好きです 

真如堂の創建は、 慈覚大師円仁 が大津の苗鹿明神から賜った柏の霊木自刻して比叡山の常行堂に祀った阿弥陀如来を 984年に比叡山の僧 戒算上人 が東三条院詮子(一条天皇の御母)の離宮にあんちしたのとに始まる。その後、不断念仏の道場として信仰を集めてきたが、応仁の乱の戦火でやかれるなどして比叡山や大津に移転、さらに歴代の足利将軍や豊臣秀吉により市中を転々としたが、 1693年に現在の地に再建された。多くの伽藍はこの頃の造立のようです。
本尊である阿弥陀如来立像は、女人を救済くださると、女性の参拝者が目立ちます。

真如堂・三重塔  真如堂・元三大師堂
三重塔                       元三大師堂

  真如堂・本堂
               本堂

本堂の庭園は「涅槃の庭」と呼ばれ、比叡山をはじめ東山三十六峰を借景にした 枯山水 の名園として知られています。

 真如堂・庭園

 境内には、早春の梅から始まり、サンシュユ、椿、桜、菩提樹、などあり四季折々の花木を楽しむことができます。

真如堂・梅  真如堂・サンシュユ
       白梅                    サンシュユ                            

  真如堂・菩提樹 菩提樹

また、もみじの真如堂 とも呼ばれるように、ゆるやかな石段が続く参道の両側は多くのカエデが植えられて、紅葉の季節には一面の紅葉に埋もれ、散り紅葉の12月に入った頃には、参道がさながら赤い絨毯が敷き詰められたようになるり、境内も赤や黄色に染まりその美しさに目を見張るばかりです。

真如堂・秋  真如堂・秋3

 
花データ

 ~サンシュユ~ ミズキ科 落葉小高木
 中国及び朝鮮半島に分布し、江戸時代に日本に持ち込まれ薬用植物として栽培されるようになった。春先に黄色の花を付け、秋に赤い実が付き庭木として植えられたり、生け花や茶花としても愛用されている。ちなみに、民謡の『ひえつき節』に歌われているのはこの サンシュユ のことです。

 ~菩提樹~ シナノキ科 落葉高木
 中国原産で日本へは臨済宗の開祖 栄西禅師 が持ち帰ったと伝えられ、仏教寺院によく植えられている。6~7月頃に淡い黄色の鈴のような花を付け、芳香を漂わせます。シューベルトの歌曲集に歌われている『提樹』はこの菩提樹ではなく近縁の セイヨウボダイジュ のことです。    
  



北野天満宮  ~梅の香に誘われて

 今年はかなり梅の開花が遅れているようですが、梅の花といえばやはり 北野天満宮 ですよね
境内にいたるところで咲き誇る梅の花 花  には驚くばかり

北野天満宮・境内  北野天満宮・境内2

そして、5000坪をもつ梅苑。境内を合わせると約2000本を数えるといわれるだけにあっとうされること間違いなし
2月25日の 梅花祭 には梅見をたのしむひとであふれます。
春の日差しを浴びながら開花した梅を見ながらの散策はのどかでのんびりとした気持ちになりますよ 
梅苑の中でお茶をたのしむこともできまるのでより一層、梅見を堪能できます。また、もみじ苑 も紅葉の名所となっていて、昨年は ライトアップ されていましたが今年はどうでしょうか 

 さて、この北野天満宮は 菅原道真 を祀る神社、豊臣秀吉 が聚楽第完成を記念して催した 北野大茶会、 出雲の阿国 が社前で歌舞伎踊を奉納したことによる 歌舞伎発祥の地 と、歴史に知られたことがたくさんあります。
 そもそも北野天満宮は歴史の授業で習ったように宇多、醍醐天皇に重用され右大臣として活躍した菅原道真が、時の左大臣藤原時平の讒言で太宰権師に左遷され大宰府で薨去した。道真の死後、都において清涼殿の落雷や天変地変が頻発したり藤原家に変死者が続出していた。人々は道真の悲劇を知っていただけに、これらの出来事は道真の怨霊のなせるところと信じ恐れた。そして、道真の怨霊を鎮めるために官位を戻していた。そんな折、多治比文 という巫女が「道真の怨霊を北野の地に祀れ」という託宣を受けたが、貧しい文子は自分の家に小祠をつくるしかできなかった。しかし、再度託宣を受け、北野朝日寺の協力をえた社殿を設けたことが創建になる。その後、増築されて現在に至っている。

北野天満宮・楼門  北野天満宮・三光門
     楼門                       三光門

 北野天満宮・本殿 本殿


 また、境内西側を流れる紙屋川沿いには、秀吉が京都大改造をした折に造られた 『御土居』 の跡が残り、史跡に指定されています。

北野天満宮・御土居  北野天満宮・御土居2


参考データ

 京都市下京区間之町通にビルに挟まれた公園ほどの小さな神社 文子天満宮 がある

文子天満宮  文子天満宮2

 この神社は多治比文子の自宅跡という説がある。文子は菅原道真の乳母ともいわれる女性で、道真が配所で没したのちに、かのお告げを受け北野天満宮の創建に至ったことで知られている。もしかしたらこの地に、小祠を建て道真の霊を祀ったのかもしれない。
プロフィール

ポピーランド

Author:ポピーランド
FC2ブログへようこそ!

アクセスカウンター
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR