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積善院 ~ 「五大力さん」で知られる寺の人喰い地蔵 ~ 

 本山修験宗総本山の聖護院の東に隣接する 積善院 は『準提堂』、『五大力さん』とも呼ばれ、聖護院の門跡を代行することもあったという一院家で、昔は『稱ノ坊』と称したといいます。創建は鎌倉時代の1200年ごろとされ、江戸時代建立された準提堂と明治の初めに合併され 積善院準提堂 とも呼ばれています。そして、毎年2月23日に行われる秘仏五大力菩薩が開帳される『五大力尊法要』は京との春の風物詩として知られています。また、境内には『人喰い地蔵』とも呼ばれる『崇徳地蔵』が安置されています。この地蔵は保元の乱に敗れて讃岐に流され死去した崇徳上皇の怨霊を慰めるために、庶民たちによって造られたもので、発音が似ているためか、いつの間にか『すとくいん』が『ひとくいん』に訛り、『人喰い地蔵』といわれるようになったといわれています。
 
 五大力尊の石柱がたつ参道を進むと山門の冠木門があり、その先に拝殿が建っています。

  積善院1  積善院2
    山門                            拝殿

 拝殿の奥にある本堂には積善院本尊の不動明王像と準提堂本尊の準提観音像が安置されています。また、その西側にある元積善院本堂には阿弥陀如来像や役行者像などが安置されているといいます。

   積善院3
     本堂

  積善院4  積善院6
    元積善院本堂                      お俊伝兵衛恋情塚
     
 そして、境内には近松門左衛門が聖護院の森で心中した遊女・お俊と呉服商・井筒屋伝兵衛を題材にした人形浄瑠璃『近頃河原達引』にちなんだ『お俊伝兵衛恋情塚』が建っています。この供養塔は歌舞伎役者や義太夫などゆかりある人々が発起人となって建立したといいます。

 そして、境内の一番奥まったところに『人喰い地蔵』と呼ばれる地蔵尊が安置されています。

   積善院5
     人喰い地蔵と呼ばれる崇徳地蔵

 崇徳上皇が讃岐の地で非業の死を遂げたのち、天変地異の役災厄にみまわれた京の街。それは崇徳上皇の怨霊の祟りとされ、その霊を慰めるために庶民によって造られた石造の地蔵尊、『人喰い地蔵』などという怖い名前で呼ばれていますが、やはり『崇徳地蔵』のなで読んであげたい・・・そんな気持ちになってくる 積善院 の参拝でした。

 
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聖護院 ~ 狩野派の豪華絢爛な障壁画が彩る本山修験宗の総本山 ~

 京都市左京区聖護院中町にある 聖護院 は『山伏』で知られる本山修験宗の総本山。寺伝によれば、修験道の祖・役行者を宗祖、智証大師円珍を開祖とし、はじめは洛北・岩倉で常光院と称していたが、寛治4年(1090)に当時の住持であった増誉大僧正が白河上皇の熊野詣の先達をつとめた功績により熊野三山検校職を賜って修験道を統轄し、『聖体護持』の言葉から二字とって 聖護院 を創建したといいます。その後、後白河天皇の皇子・静恵法親王が入寺されて門跡寺院になり、徳川幕府からは修験道本山法頭として諸国の本山派山伏の統轄権が与えられたといいます。また、天明8年(1788)と安政元年(1854)の御所の炎上の際には光格天皇、孝明天皇が避難されて仮皇居となったことから『聖護院旧仮皇居』として史跡に指定されています。そして、聖護院の年中行事のひとつ寒中托鉢は、山伏装束で法螺貝を吹き鳴らして托鉢することで知られる京都の風物詩となっています。

 春日上通に面して門を開く聖護院、『聖護院門跡』の石柱を前に山門、その奥に大玄関が見えてきます。

  聖護院1  聖護院2
    山門                            大玄関

 大玄関を入ると狩野派の絵師が描いた三面の老松図が目の前にあらわれ、圧巻な面持ちで中に入ると、室内には鈴懸衣に結袈裟、頭に頭巾という装束の山伏や様々な法螺貝が展示されており、何時も訪れるお寺とは異なる雰囲気が漂ってきます。

  聖護院3  聖護院8
    
 孔雀が描かれた孔雀の間、太公望が描かれていることが由来となった太公望の間、長谷川等伯の屏風絵を模写したという波の間を拝観して宸殿へ。

   聖護院4
     宸殿

  江戸時代初期に再建された宸殿内陣・外陣は鶴の間と呼ばれ、かつては聖護院の宮が祭礼用に使われたという内陣には明治5年(1872)「の修験道廃止令によって末寺から託された不動明王や役行者、蔵王権現が安置されています。鶴の間の隣には九人の仙人が描かれている三之間、花鳥図が描かれた二之間、後水尾天皇の宸筆の扁額が掲げられた上段の間が続いています。そして、上段の間の床の間には雄大な滝や松が描かれていて、権勢の偉大さがうかがえます。

   聖護院5
     上段之間

 京都御所の紫宸殿を模した造りになっているという宸殿の前には白砂の庭が広がっていますが、この庭は2月の節分会と6月の役行者の命日に大勢の山伏が集まり執り行なわれる採燈大護摩供の護摩道場といいます。晴れ上がった青空から差し込む光に映し出された砂紋の美しさに感動・・・

  聖護院6  聖護院7
    庭園                            書院

 宸殿の奥にある書院は後水尾天応が女院のために建てた御所の殿舎を移築したものといい、数寄屋風書院造りの建物は江戸期の御所の建築様式の貴重な現存例として重要文化財になっているといいます。室内は女性らしい繊細な雰囲気が漂い、恋文を意味する『折れ文』や『笹竜胆』の釘隠しが目を引きます。そして宸殿からつながる本堂には創建当初からの本尊・不動明王、役行者、智証大師円珍像が安置されています。

  聖護院9  聖護院10
    本堂                            聖護院山王社                           

 山伏という厳めしい宗派の寺院からは想像できない豪華絢爛な障壁画に圧倒されて白砂が眩い庭を歩けば、白砂の上には愛らし猫の焼き物が置かれていて、その遊び心に心も和みます・・・

  聖護院11  聖護院12

 そして、通常はあまり公開されない 聖護院 豪華絢爛な障壁画に圧倒されて境内をあとにしながら、山伏が執り行う採燈護摩供に訪れ、その迫力をまじかで感じてみたいとの思いが募りました。
 

法住寺 ~ 身代わり不動明王が安置される後白河上皇ゆかりの寺 ~

 京都市東山区のある 法住寺 は平安末期、武士・貴族・天皇・上皇の勢力が入り乱れた時代、30年以上もの長きにわたり院政を行なったことで知られる 後白河上皇 ゆかりの寺として知られる天台宗の寺院。
 法住寺は、永祚元年(989)藤原為光が亡くなった夫人と息女の菩提を弔うために創建た寺でしたが、長元5年(1032)に焼失。そおのち、皇位を譲った後白河上皇がこの地に院の御所『法住寺殿』を造営して遷られ、栄華を誇ったといいます。そして、崩御されると法住寺殿の法華堂に葬られ、明治時代まで法住寺は上皇の御陵を守る寺であったといいます。明治以降は宮内省に所管が移り、『大興徳院』という寺名になりましたが昭和30年(1955)に『法住寺』に復称されたといいます。ちなみに、後白河上皇が平清盛に命じて建立し、1001体の十一面千手観音立像を安置していることで知られる三十三間堂は、この法住寺殿内のお堂のひとつであったといいます。

 三十三間堂(蓮華王院)の南門を入ると右手にはピンクや白の芙蓉が咲き乱れ、その先に旧法住寺御陵正門である龍宮門が建っています。

  法住寺1  法住寺2
    芙蓉の花に包まれる法住寺界隈          旧法住寺御陵正門

 龍宮門から築地塀に沿って進むと『身代り不動尊 法住寺』と刻まれた石柱を前に山門がたっています。法住寺で最も尊崇されている身代り不動明王は慈覚大師円仁の作と伝わる仏像で後白河上皇の信仰も篤く、木曽義仲の焼き討ち遭った際に、当時の天台座主の明雲が放たれた矢に倒れも上皇は無事であったことから、「不動明王が明雲になり身代りになってくれた」と涙されたとも伝えられ、また赤穂浪士・大石内蔵助が山科に隠棲中、山科街道を通って遊郭に通う際に、この身代り不動明王に祈願して大願成就を果したとの話も伝えられているといいます。歴代天皇や武士、公家からの信仰も篤かった身代り不動明王はあらゆる災厄からの『身代り』の霊像として今も多くの人々に信仰されているといいます。

  法住寺3  法住寺4
    山門                            厳島弁財天・豊川阿枳尼天                           

 山門をくぐると石畳に沿って参道を行くと左手には厳島弁財天や豊川阿枳尼天などが祀られ社があり、四季折々の花木が植えられた境内に花を終えた蓮の鉢が並び、その奥に十三重塔がそびえています。さらに進むと本堂、阿弥陀堂が建っています。

  法住寺6  法住寺7
    十三重塔                         本堂前庭    

   法住寺8
      本堂

   法住寺5
      阿弥陀堂                                           

 本堂には本尊の不動明王が安置され、その隣の部屋には赤穂浪士の木像が置かれています。

  法住寺9  法住寺10
    福寿観音                         地蔵尊

 参拝を終え境内を散策すれば、サルスベリやほんのり色を付けたザクロなどの木陰に、福寿観音や地蔵尊などが安置されています。また、『今様』を愛した後白河上皇を偲ぶように今様の一節が刻まれた石碑も・・・

 御陵を守る寺のイメージが強く、少し拝観しにくかった 法住寺 でしたが、今回訪れてその雰囲気にためらいがなくなり、数ある行事に訪れてみたいと思いながら境内をあとにしました。
 

 

養源院 ~ 血天井と俵屋宗達の描いた杉戸絵や襖絵で知られる浅井姉妹ゆかりの寺 ~

 京都市東山区にある 養源院 は豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の菩提を弔うために建立した浅井家の菩提寺で、寺名は長政の法名から名づけられたことで知られています。文禄3年(1594)、浅井一族で比叡山の僧であった成伯法印により開山された寺は、元和5年(1619)に火災で焼失するも、二年後に淀殿の妹・崇源院の願いにより夫の徳川秀忠が伏見城の遺構を移して再建し、以来徳川家の位牌所、皇室の祈願所となったといいます。そして、その再建された本堂廊下の天井は伏見城落城の際、城を守っていた鳥居元忠ら将士が自刃した廊下の板を用いられた『血天井』として知られています。また俵屋宗達が描いた杉戸絵や襖絵、狩野山楽の襖絵などでも知られています。

 三十三間堂に面して門を開く 養源院 山門の先には木漏れ日の中石畳の参道がのびています。

  養源院1  養源院2
    山門(南門)                        勅使門(北門)

 山門をくぐると、右手に白衣弁財天、左手に毘沙門天が祀られる参道を歩けば、少しだけ秋を感じさせる風が流れてきます。

  養源院5  養源院6
    白衣弁財天                       毘沙門天

  養源院3  養源院4
    木漏れ日の参道                    晩秋の参道

 心地よい風を受けながら進むと、正面に葵の御紋の幔幕を張った玄関が見えてきます。

   養源院7
 
 玄関を入ると目の前には『獅子』、その裏側には『麒麟』が描かれた杉戸、血天井の張られた廊下の奥には『白象』を描いた杉戸、当時はかなり珍しい動物たちのインパクトある構図と大胆な表現は圧巻で、知らず知らずのうちにその絵の中に引き込まれていきます。また、松と岩だけが描かれた襖絵は豪壮で松の緑が気品を漂わせています。そして『血天井』を見上げれば、ガイドさんが指しだす棒の先には自刃を想像できるような姿が・・・あまりの生々しさに胸が痛み、思わず安置されている阿弥陀如来に手を合わせ、冥福を祈りました。

 浅井家の菩提寺、徳川家の菩提所となっている養源院には歴代将軍の位牌とともに浅井久政・長政、淀殿、秀頼、お市の方の位牌も置かれていますが、秀忠と崇源院の位牌には『』 『』 『』の3つの紋が入っています。天皇家の紋である『』は二人の子である和子が後水尾天皇のもとに入内されたことから、『』は徳川家の紋、そして『』は養源院を建立した豊臣家の紋。3つの紋を同時に拝見できるのはここだけとのことで、養源院建立の歴史を感じます。

 そして、左甚五郎が造ったという『鴬張廊下』を歩き、伏見城から移築された秀吉が学問所としていた『牡丹の間』に。その名があらわすように、牡丹の折枝が描かれた襖は狩野山楽の作といい、紅白の図案的な牡丹が印象的です。また、境内のヤマモモの巨木には白鷹龍神、赤桃明神、白玉明神が祀られ、古くは女性の間に縁結びの信仰があったとのこと。

  養源院8  養源院11
    白鷹龍神・赤桃明神・白玉明神           鐘楼

 時代に翻弄され数奇な運命をたどった浅井姉妹、その胸に刻まれた魂の数々・・・養源院 境内を彩る四季折々の風景を見るたびに平和な時代に生を受けたことの幸せを感じさせてくれるお寺です。
  
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                     初秋の境内を彩るサルスベリとムクゲ

 

圓徳院 ~ 趣の異なるふたつの庭を持つねねが余生を過ごした寺 ~

 高台寺の参道入り口前に立つ 圓徳院 は秀吉の正妻ねねが、伏見城の化粧御殿を移築して移り住み、日々、秀吉の菩提を弔うために創建した 高台寺 に通い余生を過したことで知られています。また、此処にはねねを慕って多くの大名や禅僧、歌人、茶人などの文化人が訪れ、文化サロンのような一面もあったといわれています。そして、ねねの没後、甥の木下利房が高台寺の三江紹益禅師を開山に、木下家の菩提寺とし開き、自分の法号である『圓徳院』を寺名としたといいます。

 ねねの道に面して開かれた長屋門を入るとその先に『圓徳』の扁額がかかげられた中門がなっています。ここから方丈に向かう石畳の両側にはツワブキが植えられ、冬の足音が聞こえそうな時期になると美しい紅葉とともに黄色の花が訪れる人の目を楽しませてくれます。

  えんとくいん  円徳院
    「ねねの道」に面して開く長屋門           「圓徳」の扁額がかかげられた中門

  円徳院3  円徳院4
                                   方丈
 木漏れ日がさし込む石畳の参道を進み方丈に上がれば、本尊前で荒れ狂う波涛から天に向かって顔を上げる白龍を描いた雄大な襖絵が出迎えてくれます。これは近年に描かれたもので、圓徳院の襖絵として知られているものに、長谷川等伯が唐紙に描いた山水画があります。また、その他にも近年い描かれた松竹梅図や雪月花図の鮮やかな襖絵が方丈を彩っています。そして方丈の前にはカエデなどの木々を背景に白砂の眩しい庭が広がり、コントラストの美しい庭は眺めているだけで心も癒されてきます。

   円徳院5

 伏見城の化粧御殿が移築されたという北書院の前には、化粧御殿の前庭を移した桃山時代を代表する庭園が広がっています。

   円徳院6

 小堀遠州により整備されたと伝わる枯山水式庭園には多数の巨石大岩が置かれ、その豪壮華麗な石組みの迫力に圧倒されます。

   円徳院7

 豪華な印象の北書院北庭、優しい印象の方丈南庭、対照的な表情を持つふたつの庭園はぞれぞれに趣きがあり、四季折々に風情ある光景を見ることができます。
      
 境内の出口の広場には秀吉の念持仏としたと伝わる三面大黒天尊天と歌聖とも呼ばれた長嘯子(ねねの甥で若狭藩主)を祀るお堂と高台寺や関連寺院の名品を収蔵する掌美術館が建てられています。

  円徳院8  圓徳院9
    三面大黒天尊天堂                   歌仙堂

 また、同じ広場には茶店や土産店などもあり、内外の観光客が足をとめて休憩する姿も。

 糟糠の妻として秀吉を見守り続け、秀吉没後は出家して夫の霊を弔いながら生涯を終えたといわれる『ねね』ゆかりの 高台寺 と 圓徳院 今も伝わるねねの面影を偲びにまた訪れたいと思います。 

 
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